鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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㊲ 南画の継承性と創造性─田能村直入の堺・大坂滞在期の画業と富岡鉄斎の堺滞在期の画業─研 究 者:堺市博物館 研究員  宇 野 千代子はじめに田能村直入(1814~1907)と富岡鉄斎(1836~1924)はともに幕末から明治にかけての南画を代表する人物である(注1)。直入も鉄斎も京都に住んだ時期が長いため、一般に京都の画家と捉えられており、前半生の一時期を堺で過ごしたことはあまり知られていない。直入は天保10年(1839)、26歳で故郷の豊後を出た後、堺におよそ7年間滞在し、その後、明治元年まで22年間大坂の中心地に住み、大坂の文人社会を基盤として活動した(注2)。鉄斎は、明治10年1月17日、42歳で堺の大鳥神社の大宮司として赴任し(明治10年12月12日、神官制度改正によって宮司となった)、明治14年11月7日に辞表を提出し12月28日に解任されるまで、約5年間を堺で過ごした(注3)。本稿では、この直入の堺・大坂滞在期と、鉄斎の堺滞在期の作品に注目し、彼らが各々の画歴の早い時期にどのような画業を残したのか見てみたい。田能村直入の堺・大坂滞在期の画業直入の絵を概観すると、京都に居住した後半生(明治元年以降、55歳から94歳で没するまで)において画風が固定化していくようである。しかし、小虎と号した堺・大坂滞在期の作、とくに30歳代前半の若い頃の作には、多彩な表現を見ることができる。例えば、天保14年(1843)の「牛瀧紀行図巻」〔図1、2〕、「茅海八勝図帖」〔図3、4〕、「界浦眺望図」〔図7〕などが挙げられるが、これらの作は、堺の人々の注文を受けて描いたものである。以下に少し詳しく見てみたい。堺に出てきたばかりの頃の直入は、師の田能村竹田は既に没していたためその引き立ても無く、竹田の友人であった岡田半江や篠崎小竹の世話になり、半江から絵の弟子を紹介してもらったり、画会を行ったりして画業で生計を立てたという。そのような直入を支えた堺の人物として、魚問屋を営んだ旧家、古家(こげ)家の13代当主太郎兵衛(号・魯岳 1785~1855)が挙げられる。魯岳は詩書画を好み、友誼に厚い人柄であったため、堺に来た文人墨客は魯岳を訪ねるのを常としたという(注4)。魯岳は30歳ほど年下の直入に仕事を与え、育てようとしたのだろう。― 401 ―

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