「牛瀧紀行図巻」は、この魯岳の注文により直入が絵を描いた一巻である。和泉国の牛瀧山へともに出かけた小旅行について、魯岳が紀行文を記し、二人がそれぞれ旅の所感を詩に詠んでおり、詩にあわせて直入が簡略な筆致で10図の絵を描いている。その表現をみると、大坂湾に夕日が沈む様子を描いた巻末の図は、渇筆の淡墨線を引き重ねて山や土坡を表わす描法や、透明感のある淡彩の使用法など、竹田の画風を思わせる〔図2〕。別の図の蟹を引く子どもの顔の表情にも竹田風が感じられる。また、渓流の水で煎茶を楽しむ様子を描いた図は、魯岳・直入・老僕の三人を中国文人に見立てて、人口に膾炙した『芥子園画伝』の人物図風に描いており、このような直入の絵は魯岳の文人趣味を満足させたに違いない〔図1〕。この作の4年後の「茅海八勝画帖」も、魯岳ら堺の人々の発注である。この頃すでに直入は大坂に転居していたが、魯岳との交流は続いていたのであろう。この画帖は西本願寺の門主に奉献された絵の稿本であり、奉献作の方は『堺市史』編纂時の写真資料(堺市立中央図書館蔵)中の白黒写真で確認することができる。稿本と奉献作は同じ図様であり、細緻な描写の密度も変わらない。添状の写真も残り、それによると、堺別院に来た門主が堺の景色を見る暇もなく発ったため、残念に思った魯岳ら堺の人々4人が直入に堺近辺の景色八図を描かせて奉献したという。この制作の由来から「茅海八勝図帖」は堺の実景を描くのかと思えば、例えば「妙國鳳蕉」〔図3〕では、妙國寺を本来の姿とは異なる中国風の寺院として描いており、「戎島釣月」〔図4〕では、大坂で流行した四条派の西山芳園の名所風景図に似た叙情性を墨のみで表現するなど、南画に限らず当時の絵画の流行を反映した趣味性の高い作となっている。一方、同年秋の「界浦眺望図」〔図7〕は、西洋の遠近法を取り入れて細緻に描いた真景図であり、堺港を中心に大阪湾を望み、西は淡路島、北は摩耶山や武庫川、南は泉南郡岬町のあたりまで見渡している。本作も稿本のようで、『堺市史』編纂時の写真資料(堺市立中央図書館蔵)の中には、同じ図様で地名の書入れのある写真が残る。本来、鑑賞だけではなく記録のための絵図としての役割もあったのだろうが、遠方の山々は山頂に礬頭を表わす伝統的な文人画のスタイルで描いている。堺では天保期から十数年にわたって、港湾とその周辺の総合開発が行われており、弘化4年10月、12年ぶりに堺港を訪れた広瀬旭荘は、石堤の造営や高燈籠の移転等、変貌の様子に驚いている(注5)。同年に制作された本作も、改築された堺港の景色を記録しておきたかった堺の人による発注と推測される。以上は直入が堺で厚遇された様子を示すような三作であるが、直入が堺に居を定めた理由は、直入の門人の奥田天門の『直入先生系傳』に以下のように記される。― 402 ―
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