二十六歳ノ春、浪華ニ出テ京攝間ニ流寓シ、河内二遊ビ、後チ堺櫻街ニ僑居ヲ卜ス。当時、京師ニハ、竹洞、春琴、楳逸、対山、海僊ノ諸大家アリ。浪華ニハ、半江覇ヲ称シ、梅谷其他ノ名家割拠セシヲ以テ、少壮ノ先生手腕ヲ伸ルニ処ナク、暫ラク該処ニ笈ヲ下シ、形勢ヲ窺フ。京都や大坂のように高名な画家のいる地を避け、画業で売り出していくための最初の足がかりとして選んだのが堺であったという。この文章からは直入が京坂で活動するにあたって同地の画家たちを相当に意識していたことがわかり、彼らの表現を学んだものと思われる。大坂に転居した直後の作に、「月下春遊図」〔図5〕や「唫客賞春図」〔図6〕があるが、「月下春遊図」は唐美人を得意とした小田海僊の影響を感じさせ、「唫客賞春図」の靄に包まれた山水の湿潤な空気の表現は岡田半江の画風を思わせる。以上のように、30歳代前半の直入は京坂の画家たちの表現を積極的に取り入れ、多彩な画風の作品を描いていた。しかし、師の竹田についてはその画風を受け継ぎつつもむしろ、竹田の年忌法要を行うという方法で自らが竹田の継承者であるのを表明していることに注目される。24歳の時に三回忌の追福会を開いたのをはじめ、七回忌、十三回忌、二十五回忌、三十三回忌、五十回忌、五十五回忌と、それは直入の生涯にわたっている。また、直入は42歳の時に『南画真趣』(安政2年3月11日跋)という画論・画法書を著しているが、その冒頭に竹田の名が出てくる(注6)。かつて竹田が自分にむかって「今人我画ヲ作ル所以ヲ知者ナシ」と言ったが、その時自分はまだ幼くその意を解することができず、師の没後、わかったことがあるので諸家の書に拠って師の意を述べてみるとある。しかしこの書には竹田が言ったという言葉がいくつか記されるものの、竹田の画論を検討するような議論はなく、あるいは画家としての自身の来歴を示し、自著を正当化するための目的で、竹田の名を駆り出したのかとも疑われる。この書の跋文に記された、直入の南画の流行に対する考え方が興味深い。すなわち、「我邦南畫の流行すること當今より盛なるはなし」と始めるものの、「前代に較ふれは、畫を作る人は多くして、畫の品格は益下れり」と嘆く。しかし自分がこれを補おうとしても蟷螂の斧に過ぎず、口を糊し、妻子を養い、紙や筆を得られるのもこの流行のおかげ、流行に報いるためにこの書を著すのだ、と結んでいる。竹田ら前代の画家たちに恥じない絵を描こうという気概は示されず、それより自分が生きていくためにもこの書を著して南画の更なる振興をはかるのだという主張が表明されている。― 403 ―
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