世間に迎合的すぎるともいえるこのような思考が後の直入の画風の固定化につながったとも考えられるが、その表明のとおり、南画の流行に寄与し、振興普及を図ったという点で、直入は新しい展開を何度か南画界にもたらしている。大坂では書画会や詩社などによる交遊が盛んであったが、直入は南画や文人趣味をテーマにイベントを開催して多くの人々を楽しませるような才があったようである。それは堺にいた頃から発揮されており、例えば、岡田半江筆「界府客中詩画巻」(関西大学図書館蔵)には、堺に来た半江が、閏九月の満月の夜に直入が開いた書画展観の会に参加したところ満座の客で盛況だったことが記されている。このような直入の才がもっとも発揮されたのが、売茶翁の百年忌を掲げて、文久2年(1862)に直入が主宰者となって大坂の網島で開催した煎茶会「青湾茶会」であろう。青湾茶会には千人を超える参会者があったといい、明治・大正時代に大寄せの煎茶会が流行するきっかけとなり、直入が茶席の設えの図を描いた茶会の記録『青湾茶会図録』は、いわゆる茗讌図録の流行の嚆矢となった。ちなみに、青湾茶会のスポンサーの中にはかつて直入が堺で絵の注文を受けた人物もいたことが同図録に記載された人名から知れる。「洗心堂 宮城伸斎」は、直入が原画を描き、弘化2年に版行された「荒和大祓御祭礼図」(堺市立中央図書館蔵)の梓主、泉州堺の「洗心堂 宮城氏」と同一人であろう。多くの人々を巻き込んで何事かを成す直入の才は、京都府画学校開設にも発揮されたのではないだろうか。明治維新後、京都に移住した直入は、明治11年に京都府知事に京都府画学校開設の陳情書を提出した(注7)。この陳情書の中で直入は師の竹田が果たせなかった画学校設立という遺業の実現を訴えている。竹田が近代的な画学校の設立を本当に考えていたのか、また竹田の名が画学校設立にどれほど効果的であったのかわからないが、すでに直入自身が画家として高名であったことを思うと、師の遺業を実現するためという前近代的な主張は、南画に新たな地平を開くことになるだろう画学校開設事業を推し進める際に、それが南画の正しい道統であると直入自身が確信するために必要であったのかもしれない。富岡鉄斎の堺滞在期の画業鉄斎が堺にやって来たのは、直入が画学校開設の陳情書を提出した年の前年、明治10年1月である。その頃の堺は、堺県として現在の大阪府東部・南部と奈良県のほぼ全域を含む広い県域を有していた(明治14年2月7日に大阪府に合併され、堺県は廃止)。鉄斎は明治9年5月から当時堺県域にあった石上神社の宮司を務めており、10― 404 ―
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