月には堺県の命を受けて県庁の役人と共に河内大和の国の御陵を調査した。当時の堺県令は税所篤(1827~1910)であり、この税所の抜擢により鉄斎は大鳥神社大宮司に任ぜられたという。大鳥神社赴任直後の明治10年2月、11日の紀元節にあわせて明治天皇が畝傍山東北陵(神武天皇陵)へ参拝するために堺県に行幸した。その行程は、2月10日に今井村の行在所に入り、翌11日に神武天皇稜参拝、12日に大和から河内へ出発し、道明寺村の行在所に一泊、13日は雄略天皇陵に参拝の後、堺市街に入り、河盛仁平邸に設けられた行在所に宿泊、14日には堺を出発し、住吉神社参拝後に大阪府に入るというものであった(注8)。鉄斎はこの行幸に際して「堺県行幸道筋官幣大社御陵位置図巻」〔図11、12、13〕と「堺県行在所御飾付図巻」〔図14〕を描いている(注9)。純粋な南画と異なる、記録を目的とした作であるが、勤皇家として知られる鉄斎の公的な画業として重要であり、これらの図巻をどのように描いたのか見てみたい。「堺県行幸道筋官幣大社御陵位置図巻」は、行幸の順路とは逆に堺、河内、大和の順に道筋の御陵や社寺、町村や山川を描き、その名称を赤字で細かく記す。水平方向に道を配し、道の下側においては家や山を上下逆に描くという絵図の描法を用いているが、時に道が山の向う側に隠れるなど絵画的表現もまじる。道の上方の山々は、青・緑・代赭で豊かに彩られて美しく、古来神聖な山として崇められてきた二上山は、山頂を鋭角にデフォルメして描き、濃墨で峻を表わして山の姿を強調している〔図12〕。また、この行幸で最も重要な畝傍山は樹木まで丁寧に描いて他の山より目立たせる工夫をしている〔図13〕。こういう山の表現からは、鉄斎にとって山を描くということが古跡への尊崇の念を表すことと不可分であったことが窺い知れる。「堺県行在所御飾付図巻」も行幸の順路とは逆に、堺、道明寺村、今井村、東南院の行在所の順でその飾付の様子を描く。青銅器、太湖石、藍映や朱軒の掛軸など中国の文物や、仏手柑の盛物、盆栽などを描いた図は、当時流行の煎茶会の設えや、それを均一な線で細かく記録した茗讌図録の図を思わせる〔図14〕。しかし、器物や草花に施された透明感のある色彩は、鉄斎の色使いの才を感じさせ、行在所の清浄な雰囲気をよく伝えていて絵画的にも美しい。以上の二作は、記録のための描法を用いつつ、単なる記録にとどまらず、後の鉄斎の作品に通じる鉄斎独特の思想や画才を示しており、絵画作品としての魅力もあわせもつ。それは後に、志野焼の復元・復興で著名な陶芸家、荒川豊蔵が自身の創作の源としてこの二作を所有したことでも証されよう(注10)。堺での鉄斎は、大鳥神社神官として神社の修理費を捻出するために書画を制作する― 405 ―
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