など経済的に苦しい生活を送ったというが、そういう生活の中で、漢学者の土屋鳳洲(1841~1926)を中心とした文人たちと交流している。鉄斎は大鳥神社赴任当初、堺県庁のおかれた本願寺堺別院に近い祥雲寺に寓したが、祥雲寺の近くには鳳洲が晩晴塾(晩晴書院)という私塾を開いていた。この晩晴塾には正木直彦が堺県師範学校の学生だった頃に通っており、その頃の思い出として、鳳洲を訪ねて堺・大阪・京都の漢学者や詩人がよく遊びに来て詩会や飲み会が催され、鉄斎もその仲間であったことを記している(注11)。「茅海晩景図」は画中に「茅海晩景 寄呈鳳洲祠宗 乞正 鐵史」とあり、鳳洲との交流のなかで生まれた作とわかる〔図8〕。この絵は、鉄斎ほか12人の文人たちが鳳洲のために寄せた詩文や絵とともに一巻に仕立てられており、その中には正木の文章に名前の挙がる頼支峰や頼達堂、清の文人・陳曼寿らの名がみえる。巻頭の題字「翰墨良縁」は、陳曼寿が光緒8年(明治15年、1882)3月に揮毫したものである。陳曼寿は明治13年に来日し、鳳洲は明治14年から陳曼寿の支援の中心となった(注12)。陳曼寿が本巻に寄せた文によれば、明治14年6月13日に堺を訪れた陳曼寿は鳳洲と会い、その晩、鳳洲の同人が海辺の楼に集まったという。「茅海晩景図」はその時の景色を描いたものかもしれない。海辺の楼からの視点であろうか、海に近く低い場所から堺港とその向こうに広がる大阪湾を望み、薄墨の線を引き重ねてシルエットのように表した山影によって夜景とわかり、燈台の明かりが想像される。この燈台はそれまでの和式のものにかわって明治10年に完成した洋式燈台である。同じ場所を示す〔図9〕や〔図10〕と比べてみると、燈台のある突堤が短縮され、燈台をはさんで北と南にある波止が省略されていることがわかる。北波止を省略した辺りには舟人の影を描き、その下方に海面の揺らぎを表わす短い線を繰り返して引き、静かな波音が聞こえるようである。正木は「鉄斎翁は余り詩をやらなかつたから、その代り盛んに絵を描いた」と記しているが、漢詩の本場から来た陳曼寿をむかえて、鉄斎は詩を寄せるよりも得意な絵で詩情を表わしたものと思われる。鉄斎の直入批判直入と鉄斎の堺滞在期の画業についてその具体相の一端を見てきたが、最後に鉄斎の直入に対する批判を検討することにより、近世から近代へと展開した南画の継承性と創造性を考えるための足がかりとしておきたい。小高根太郎氏は、鉄斎が直入の俗物根性を嫌っていたとし、鉄斎の残した筆録の中から、鉄斎が直入を批判した文言のいくつかを挙げている(注13)。その中に、大阪― 406 ―
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