鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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注⑴本稿では「南画」の語を用いたが、近代における「南画」「文人画」の語義については大熊敏の芝川氏のために直入が描いた倣古山水五十幅についての批判がある。明治28年、この山水画五十幅が直入自宅の南宗画学校で展観され、それを見た鉄斎は、「細密喜ぶ可し。然れども大概同趣小異。款題粗陋。千篇一律の画なり」と評している。これらの山水画はその縮図が版本『汲古山泉』として明治23年に出版されており、序文の筆者に鉄斎も名を連ねている。『汲古山泉』は各図に「沈石田筆意」「費晴湖筆意」などと中国画家の名を記すが、その表現は大同小異であり、鉄斎が批判したように原画もそうだったのだろう。しかし、このような実体を伴わない「倣古」の表現は、直入が摸写した清時代の山水画にすでに通例のことであり(注14)、直入のみが批判されるべきではないだろう。特定の師につくことのなかった鉄斎は絵を学ぶために古画の模写をよく行った。しかし山水画の粉本は少なく、それは「万巻の書を読み万里の路を行く」という座右の銘が示す通り、自然観照が鉄斎の山水画の制作の根拠であったからと考えられる(注15)。上記の直入の山水画に対する批判もこの鉄斎の制作姿勢から出たものであろう。明治40年、鉄斎は直入の死に際して閻魔王の前で席画をする直入の戯画「閻魔図」(大和文華館蔵)を描き、その賛に「直入は地獄の鬼に捉られ閻魔の庁て何をかくらむ」と記している。鉄斎は中林竹洞の画論に共感していたことが鉄斎の「南宗画論」からわかるが(注16)、『竹洞画論』では席画は友人の宴席などで一時の興に乗じて描くものであって高位権門の家に召されてその人の好みに応じて描いた絵など何も見所がないと否定されている(注17)。直入は大坂へ転居する際に堺の人々への留別のために「一日千画の会」という興行的な席画会を催したのをはじめ、生涯にわたって貴顕の前での席画をしばしば行っており、鉄斎による戯画はそういう直入の姿を冷笑的に描いたものと思われる。しかし近世から近代にかけて席画は広く親しまれており、これもまた直入のみが批判されるべきではない。自然観照にもとづいた山水画も、席画の否定も、鉄斎にとっては古の中国の文人画、南宗画の根本理念に忠実であろうとした結果であろう。このような鉄斎の制作姿勢とその作品は、南画が流行と衰退を経た後、写生的態度にもとづく「風景画」創出の気運が高まり、画家の主観的表現が重んじられるようになるなど、近現代的な絵画観が世の中に培われていく中で、次代の人々にも高い評価を受けることになったと考えられる。― 407 ―

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