鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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1 独居時代の紫式部『前賢故実』の絵には、文箱と巻子本の積み上げられた厨子のほか、立てかけられた琵琶と筝の琴、柱と閉じた襖障子を表したものとみられる垂直線が、式部の背後に描かれている。これは、『紫式部日記』の次の場面に基づく描写である。少々長くなるが引用する。風の涼しき夕暮、聞きよからぬひとり琴をかき鳴らしては、「なげきくははる」と聞きしる人やあらむと、ゆゆしくなどおぼえはべるこそ、をこにもあはれにもはべりけれ。さるは、あやしう黒みすすけたる曹子に、筝の琴、和琴、しらべながら、心に入れて、「雨降る日、琴柱倒せ」などもいひはべらぬままに、塵つもりて、よせ立てたりし厨子と柱とのはさまに首さし入れつつ、琵琶も左右に立ててはべり。大きなる厨子一よろひに、ひまもなく積みてはべるもの、ひとつにはふる歌、物語のえもいはず虫の巣になりにたる、むつかしくはひ散れば、あけて見る人もはべらず、片つかたに、書ども、わざと置き重ねし人もはべらずなりにし後、手ふるる人もことになし。それらを、つれづれせめてあまりぬるとき、ひとつふたつひきいでて見はべるを、女房あつまりて、「おまへはかくおはすれば、御幸ひはすくなきなり。なでふをんなか真名書は読む。むかしは経読むをだに人は制しき」と、しりうごちいふを聞きはべるにも、物忌みける人の、行末いのち長かめるよしども、見えぬためしなりと、いはまほしくはべれど、思ひくまなきやうなり、ことはたさもあり。(風の涼しい夕暮れに、聞きよくもない独奏の琴をかきならしては、「なげき加はる琴の音」と侘び住居を聞き知る人もあろうかと、忌まわしくなど思われますのは、まったくおろかでもあり、またみじめでもございました。それが実は、見苦しく黒ずみすすけた部屋に、箏の琴と和琴が調べをととのえたままで、気をつけて「雨の降る日は琴柱をお倒し」などともいいませんのでそのままに、塵が積って寄せ立ててありました、その厨子と柱との間に、首をさし入れたまま、琵琶も左右に立てかけてあります。大きな厨子一対に、隙間もなく積んでありますものは、一つの厨子には古歌や物語の本のいいようもなく虫の巣になってしまったもので、気味悪いほど虫がはい散るので、開けて見る人もありません。もう一方の厨子には、漢籍の類で、とくに大切に所蔵していた夫も亡くなってしまった後は、手を触れる人も別におりません。それらの漢籍を、あまり所在がなくてしかたが― 413 ―

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