鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
425/550

0000000000000ないときなど、私が一冊二冊引き出して見ますのを、侍女たちが集って、「ご主人さまは、いつもこんなふうでいらっしゃるから、お幸せが少ないのです。いったいどういう女の人が漢文の書物なんか読むのでしょうか。むかしは女がお経を読むのさえ、人はとめたものよ」と陰口を言うのを聞きますにつけて、縁起をかついだ人が、将来長命であるらしいということなど、まだ見たこともないためしですと言ってやりたくなりますけれど、それでは深い思いやりがないようですし、またいっぽう侍女たちの言うのも実際そのとおりなのです。)(注2)左手で髪を押さえる姿は、閉鎖的な空間で、なりふりを構うことなく書物を読みふけるさまを表すものであろう。夫亡き後の独居時代の一場面を具体的に描出したもので、『前賢故実』のテキストにも、「宣孝卒後不再醮。独与女居。披閲自娛。(宣孝卒後再醮せず、独り女と居て、披閲自娛す。)」と、夫・藤原宣孝の没後、書物の渉猟を一人楽しんだ様子に言及がある(注3)。『前賢故実』がこの場面を絵で取り上げることを選択したのは、式部が和漢の書物に通じていたことを示すとともに、『源氏物語』が彼女の独居時代に記されたとする説をふまえたものとみられる。『源氏物語』成立の時期と経緯について、芳賀矢一の『国文学史十講』(明治32年(1899))には次のような記述がある。宣孝が死んでから後は、寡住居をして居つたので、此源氏物語の出来たのは恐く000000000000000000000000000000。源氏物語のは寡住居をして居つた間に出来たのではないかと云ふのであります出来たのに就ては、古来色々の説があつて上東門院の御依頼で、石山寺にあつた料紙硯を借りて湖水の月を眺めながら書いたのであると云ふのが普通の説です。紫式部の絵といへば必ず湖水の月が書いてあります。湖月抄などいふ名前もそれから割出したのでせう。末松さんの英訳にも表紙に湖水の月があります。併しさ88888888に論じてありまう云ふことは皆嘘だと云ふことを、本居翁の源氏物語玉の小櫛00000000000000000000000000000(注4)す。源氏物語を書いて後に上東門院に宮仕へしたらしいのであります。石山寺での起筆伝説に疑問を投げかける姿勢は、『国文学史十講』にも引かれるように、すでに本居宣長が『源氏物語玉の小櫛』で提唱したものであった(注5)。さらに宣長の議論は、彼が参照した安藤為章(1659~1716)『紫女七論』(宝永元年(1704))にまで遡ることができる(注6)。それは、『紫式部日記』を式部の生涯を追うための歴史資料として分析し、人物の生没年などから『源氏物語』の成立時期を検― 414 ―

元のページ  ../index.html#425

このブックを見る