2 漢籍を読む紫式部『前賢故実』は、刊行後、歴史画の典拠として広く参照されたが、紫式部については、その後、同様の図像をそのまま継承した作品は認められない。ただし、豊原周延(1838~1912)の「禁中雪後和歌之図」(明治19年(1886))〔図3〕に描かれた厨子は、明らかに『前賢故実』の紫式部図に見られるものである。「禁中雪後和歌之図」は、紫式部ではなく、清少納言を描いたものである。「香炉峰の雪いかならむ」との定子からの問いかけに、少納言が『白氏文集』をふまえ、格子を上げ、御簾を高く上げたとする『枕草子』の逸話を表したものである(注7)。『前賢故実』で、夫・宣孝の遺品たる書物を納め、式部が独居時代にそこから書を手にとった厨子は、定子と、清少納言ら定子に仕えた女房たちが、後宮で『白氏文集』を含む多くの書物の知識を共有していたことを示す手法に変化し受容された。証する手法であり、『石山寺縁起』、『湖月抄』ほか多数の書物に引用され、「源氏物語のおこり」として鎌倉時代以降長らく信じられてきた起筆伝説を否定する立場である。『前賢故実』のテキストでは、『源氏物語』の執筆時期の追究こそなされないが、式部の略伝を「見于其日記」(其の日記に見ゆ)とまとめ、この書物が描出する式部像が、『紫式部日記』の記述に基づく典拠あるものであることを主張する。繰り返し画題となってきた石山寺で湖面の月を臨む姿を描くことを選択しない点に、起筆伝説に対する批判的な姿勢を読み取ることができる。独り書物を渉猟する式部の絵姿を創出した点には、『源氏物語』の成立時期を式部の独居時代と解する『前賢故実』の姿勢が示されていよう。『前賢故実』は、信憑性の低い伝承を排し、あくまでも史料の裏付けのとれる評伝、歴史画であることを志向している。紫式部については、『前賢故実』を手がけた菊池容斎の弟子である松本楓湖(1840~1923)が、明治20年(1887)刊行の『婦女鑑』(西村茂樹ほか編)に「紫式部中宮に侍読す」〔図4〕なる図を発表している。同様の図は、安達吟光(1853~没年未詳)「紫式部ノ略伝」(明治24年(1891))〔図5〕にも描かれた。人物の対面する向きが左右逆であり、女房が一人多く描かれているが、横顔の女房が侍する点や、中宮の背後に鏡が置かれる点などからも、明らかに『婦女鑑』の図様を引き継いだものである。松本楓湖、安達吟光らが描いた紫式部の姿は、彼女が彰子に『白氏文集』より楽府二巻を進講したことを伝える『紫式部日記』の記述によるものである。蜂須賀家本「紫式部日記絵詞」に侍読の場面の絵があり、これを先行作例として参照したとみら― 415 ―
元のページ ../index.html#426