れる〔図6〕。日記の記述に沿おうとする姿勢が『前賢故実』に通じる。ただし『前賢故実』と同様の独り書物に没頭する式部の姿が選択されなかったのは、式部の才覚が人々、とりわけ皇族に対し発揮されるさまを明確に描出しようとしたため、また、修身の教科書という枠組みのなかで、式部がすぐれた教育者であったと示すことを優先したため、などの理由が考えられよう。式部が中宮に伝授したのは『白氏文集』であり、一条帝にその才を評されたのは、「日本紀」の知識あってのことであって、式部の評価を支えていたのは、和歌、漢籍に通じたその素養であった。厨子の描写において定子のサロンの情景との可逆性が生じたのは、同時代の宮廷で望まれた教養が共通していたために他なるまい。書物の積まれた厨子や、漢籍の広げられた文机のある部屋は、当時の宮廷の知的交流の中で、漢籍の素養が必要とされたことを示している。『紫式部日記』をみると、独居中に漢籍を読んだ折には、周囲の女房たちから「しりうごち」(陰口)を言われたとされ(注8)、「日本紀の御局」と呼ばれたことも、当時は主に男性の学問とされた漢籍の知識を人前で極力伏せたという式部にとって、むしろ不本意なことであったとされる(注9)。しかし『婦女鑑』などの教科書類を含む近代の人物伝では、式部の和漢の才覚は賞賛され、知識をひけらかすことを避けた姿勢は、徳の現れと評された(注10)。式部を絶賛する近代の人物伝では、『日記』から知られる、女性が漢籍を読むことに対する周囲の批判的な視線や、それらの視線に対する式部の配慮の描写は単純化され、漢籍に造詣の深い式部を称える姿勢がより明確に提示される。良妻賢母で人徳もあり、学問にも秀でた女性として、近代の婦女教育における理想の形で、式部は描写されている。3 仮名物語を書く紫式部漢籍を読む式部の姿は前述のように複数描かれたが、近代以降も、人物画としての式部像の主流は、むしろ石山寺起筆伝説に基づくものであった。歴史的な裏付けを重視する教科書や人物伝以外においては、月を眺め立つ姿や、筆を執り創作を行う姿が、着想を得て執筆活動を行う作家としての肖像にふさわしいとみなされたようだ。図様は近世以前のものを継承するものの、近代の式部像は、観音の霊験よりも、月から得るインスピレーションを重視しているようだ。また、書物の山を前に、古典文学の伝統を引き継ぐ文筆家として描くよりも、個人的な経験から着想を得て独創性を発揮する、近代の、特にロマン派のイメージに基づく文学者像をふまえたものと見受けられる。実証性を問う歴史学の姿勢と、文学に対する近代のロマン主義的な解釈とが式部― 416 ―
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