鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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像に流れ込み、二つの異なる方向性を生み出したとみられる。実証性が重視された教育の場では、『前賢故実』や『婦女鑑』にみられるように、式部は和歌、漢籍の古典に通暁した人物として初期には描かれた。ただし、明治後期以降に入ると、国文学史がまとめられ、仮名で記された文学が国風文化の精華として扱われるようになり、文学は国民性や民族性の発露とみなされ、日本固有の文化としての価値が、『源氏物語』に求められるようになった。漢籍を読み、教えていた式部の姿よりも、王朝文学の作者としての式部像が希求され、その結果、教育の場でも、『前賢故実』や『婦女鑑』の式部像の継承は途絶えていった。ただし実証主義は残ったため、教科書の式部像は、起筆伝説に依拠した石山寺という情景設定や、湖水に映える水といった要素を取り上げることができず、文机を前に筆を執る姿に帰着せざるを得なくなった。近世以前の伝統を確かに引き継ぐものであるが、その姿が選択されるまでの経緯には、近代における文学観、歴史観が入り込んでいるだろう。京都の小学校には、昭和初期まで、大作家として式部を称え、児童の学業成就を願うものとして、式部を描いた人物画が飾られた例が複数あった。下京区の成徳中学校に伝わった、京都出身の日本画家、中村大三郎(1898~1947)による人物画が現存する〔図7〕。中村大三郎による式部像は、文机を前にする伝統的な姿をとるが、手元にあるのはやまと絵の巻物である。背景は全面金地で、和歌や物語、漢籍の伝統を継承したさまを描出する厨子などの記号もない。ここで表された式部の姿は、国風文化の粋としての、一人の独立した文学者としてのものであるだろう。式部の人物伝は早くから教科書に掲載されたが、『源氏物語』そのものの教科書への収載は、昭和13年(1938)の『小学国語読本』まで時代が降った後のことであった。若紫巻の物語が語り始められる前に、式部の略伝が載せられているが、そこには「其の後上東門院に仕へて、紫式部の名は一世に高くなりました。彼女は文学の天才であつたばかりか、婦人としても、まことに円満な、深みのある人でした。」(注11)とあり、ただ上東門院(彰子)に「仕へ」たと記されるのみで、楽府の進講を行ったという情報は消えている。式部の主たる姿は、漢籍の教育者から、すぐれた仮名文学を生み出した作家へと変容した。『小学国語読本』には「源氏物語五十四帖は、我が国第一の小説であるばかりでなく、今日では外国語に訳され、世界的の文学としてみとめられるやうになりました。」(注12)ともあり、『源氏物語』は「我が国第一の小説」と評される。この評価に至るまでには、1882年に末松謙澄による英語への抄訳、1925年から1933年にかけてのアーサー・ウェイリーによる英語訳の出版があり、『源氏物語』には、欧米列強の文化と― 417 ―

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