比肩することのできる日本文化の粋としての価値を求められた。近代の西洋文学において、詩や戯曲と並び小説の評価が高まりをみせた機運をうけて、西洋の小説に匹敵するものを探ったときに、代表例として挙げられたのが『源氏物語』であり、その傑作を生みだした作家として、漢籍などの異文化からの影響を排した、日本の誇る文豪として式部の姿は改めて立ち上げられた。『小学国語読本』巻十一が引く式部の略伝には、漢籍(注13)を兄弟(注14)よりも早く読み覚え、父の為時が「口惜しう、男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」(残念なことに、この娘が男の子でなかったのは、まったく幸せがなかったのだ)(注15)と嘆いたという『紫式部日記』の逸話が引かれる。ここには、漢籍をよく読むことのできた式部の優秀性が確かに描かれている。しかし略伝は次のように続き、式部が女性であったからこそ、漢籍の学問の道にその後進まず、仮名文学である『源氏物語』が生み出されたのだと述べる。父為時が願つたやうに、若し紫式部が男であつたら、源氏物語のやうな仮名文は書かなかったでせう。当時、仮名文は女の書くもので、男は漢文を書くのが普通であつたからです。しかし、仮名文であればこそ、当時の国語を自由自在に使つて、其の時代の生活を細かく写し出すことが出来たのです。かう考へると、紫式部は、やつぱり女でなくてはならなかつたのです(注16)。『小学国語読本』巻十一での項目名は『源氏物語』であり、そこに式部の人物画はなく、掲載された絵は若紫巻の一場面であった〔図8〕。『源氏物語』は、『小学国語読本』に採用された昭和13年(1938)、世界に誇る国文学の地位を確立しつつあり、物語の内容紹介により力点が置かれるようになった。ただしこの時期にあっても、その内容が猥雑、不敬であるとされ、教科書への掲載には強い反論があった(注17)。世界に誇れる国文学の一作品たらんとするものの、教育の場での内容紹介には、とりわけ慎重な姿勢がとられた。『小学国語読本』が引用した若紫巻の北山の場面からは、垣間見をする源氏の視点が排され、絵でも源氏の姿はトリミングされ、色恋の要素が消されている(注18)。紫式部は、日本が世界に誇る文学者として表されようとしたときに、近世そして明治前半までに描かれてきた、石山寺起筆伝説、漢籍の学殖というその「個性」をいずれも失わざるを得なかった。西暦2000年に二千円札が発行された際には、「源氏物語絵巻」より鈴虫(二)の絵が採用され、五島美術館本「紫式部日記絵詞」から、物語― 418 ―
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