鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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注⑴明治9年(1876)の月岡芳年「古今姫鑑」は、書物を熱心に読む『前賢故実』の式部の姿を継承している。ただし芳年は、明治20年(1887)の「月百姿」シリーズの「石山月」では、起筆の作者たる紫式部が格子から顔をのぞかせる姿が併せて採られたが〔図9〕、この紫式部像の選択にも、『紫式部日記』に依拠しようとする近代以降の実証主義がよみとれよう。紫式部は、ついに筆を執る姿でも石山寺に参籠する姿でもなく、中宮彰子に仕えた一人の女房姿をとることとなった。二千円札で採用された「紫式部日記絵詞」の場面は、中宮の人事が行われたのち、局に訪れた中宮大夫斉信と中宮権亮実成とに、紫式部が蔀戸越しに対面する場面である。また、二千円札については、紙幣に物語絵と作者の肖像が併せて印刷された点に、固有の文学と個性ある文豪の双方を希求し、世界に誇れる日本文化を模索した、特に明治後半から昭和初期にかけての姿勢の継承をみてよさそうである。すなわち、今日の紫式部像は、明治元年(1868)の『前賢故実』で確立された『紫式部日記』に依拠した実証主義を引き継ぎつつ、昭和初期までに高揚した国風文化礼賛の傾向の流入したものであるといえよう。近年は、「世界文学」として『源氏物語』を読み解こうとする試みもあり、紫式部を含めた平安期の知識人たちの学識のあり方を、東アジアの文化圏の広がりの中でみることもなされている(注19)。19世紀における各国文学確立の時期とは異なり、世界的、広域的にみた普遍性がより問われる時期を迎えているが、そのような動きの中で今後、どのような紫式部像がまた生み出されることがあるのか、着目する必要がありそうである。おわりに教育に関わる場面を中心に近代における紫式部の絵姿の変遷を追い、式部の学者、教育者としての側面以上に、文学者としての側面がより強調された時期が、日本の国民文学の成立時期と重なる様子をみた。また、実証的な立場を重視する歴史画と、実証性以上に個性の表現を重視する人物画との双方が別個に展開したさまからは、個性や国民性の発露として文学、文学者を捉える近代的な観点が背後にあることが見えてきた。世界の中での日本文学・文化の位置づけが問われ続ける現代において、紫式部の姿がどのように表現されるかは、過去の問題ではなく、現在にも繋がる問題であると考えられるのだ。― 419 ―

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