鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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研 究 者: 愛知県美術館 学芸員  早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程  久保田 有 寿はじめにパブロ・ピカソ(1881-1973)による《ゲルニカ》〔図1〕は、1937年、内戦下のスペインで起きたフランコ派のドイツ空軍によるゲルニカ爆撃事件をきっかけに描かれた。《ゲルニカ》は、パリ万国博覧会のスペイン館で公開された後、 1939年5月にスペイン難民救済キャンペーンの一環でアメリカに上陸する。しかし同年4月に内戦がフランコの勝利に終わり、続いて第二次世界大戦が勃発すると、《ゲルニカ》及びその関連習作はピカソの承諾のもと、ニューヨーク近代美術館(以下MoMA)に寄託される。行き場をなくした《ゲルニカ》の擁護者となり、またその評価の確立に尽力したのが、MoMA初代館長アルフレッド・H・バー・Jr.(1902-1981)である。《ゲルニカ》の言説と受容史を対象とする本研究は、1947年、図らずもその誕生から10年という節目の年にMoMAで開催された「《ゲルニカ》シンポジウム」を考察する。《ゲルニカ》シンポジウム(以下ゲルニカ・シンポ及びシンポ)は、バーが企画し、司会進行役を務め、パリ万博スペイン館関係者やアメリカを代表する芸術家達が一堂に集い、《ゲルニカ》の意味解釈を中心に白熱した議論が展開された一夜限りの催しである。先行研究では、ゲルニカ・シンポの存在は度々言及され、《ゲルニカ》の受容や研究史において重要な転換点になったことが指摘されている(注1)。しかし、ゲルニカ・シンポ自体の内容に関しては詳細に検討されているとは言えず、シンポの記録原稿が部分的に抜粋・再録されるに留まっている(注2)。この長大なタイプ原稿がMoMAのアーカイヴに保管されたまま現在も未刊行であるため、意外にも、ゲルニカ・シンポの全貌はほとんど知られていない(注3)。その一方で、シンポに登壇したジェローム・セックラーとフアン・ラレーアの二人による、《ゲルニカ》の牡牛と馬のモティーフの解釈論争ばかりが注目を集めてきた。以上の状況を踏まえ、主に記録原稿や書簡などの一次資料の調査分析を通して、ゲルニカ・シンポ実現までのプロセスとその全体像を明らかにすることを本稿の目的とする。また、シンポ企画者であるバーに焦点を当て、彼の問題意識や戦略を浮き彫りにしながら、従来とは異なる視点から、《ゲルニカ》研究と受容史におけるゲルニカ・シンポの意義を再考察する。㊴ 《ゲルニカ》をめぐる言説と受容史研究─ニューヨーク近代美術館のシンポジウム(1947)を中心に─― 424 ―

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