1.アルフレッド・バーのコレクション活動と《ゲルニカ》2.ジェローム・セックラーとフアン・ラレーア1937年の公開当初から、《ゲルニカ》は時に無理解や批判にさらされ、政治的、美学的双方の場において賛否両論が繰り返されてきた。バーはそうした批評を統制し、主に執筆活動を通して《ゲルニカ》の価値を意欲的に発信していく。バーがシンポ開催に至るまでに、《ゲルニカ》とピカソのイメージ像をどのように導いたか、その執筆活動についてはすでに別の機会に考察しているため本稿では詳しく言及しないが(注4)、ここではさらにコレクション活動におけるバーと《ゲルニカ》の関係に目を向けてみる。《ゲルニカ》が寄託作品としてコレクションに加わった1940年代とは、MoMAのコレクションの収集・展示のあり方が見直され、それまで借用作品による企画展が優先されていたのに対し、コレクション展や常設展示が始まるまさに過渡期であった(注5)。それゆえ1943年夏に初めて単独で展示されて以来、《ゲルニカ》は積極的に公開され、1946年9月からはMoMAを代表する常設展示作品として定着していく(注6)。バーは1943年10月に館長ならびに絵画・彫刻部学芸部長を退くが、翌年には絵画・彫刻部調査部長、1947年以降は新設された美術館コレクション部門部長としてMoMAのコレクション変革運動の中心的役割を担い続けた。これまであまり指摘されていないが、バーが《ゲルニカ》の展示のみならず、その獲得に積極的に乗り出していた事実は見過ごせない。バーは、1944年10月に作成したMoMAの取得候補作品リストに《ゲルニカ》を加えており(注7)、その約1ヵ月後、ナチスの占領から解放されたばかりのパリに早速書簡を送り、資金調達後の《ゲルニカ》と関連習作の購入をピカソに打診している(注8)。1947年6月にはサイモン・グッゲンハイム夫人から待望の《ゲルニカ》購入のための資金援助の申し出を受け(注9)、その夏ピカソにもう一度交渉するも、当然ピカソが承諾することはなかった(注10)。以上、1947年とは、バーが《ゲルニカ》をなんとか獲得しようと動いていたまさにその時であった。加えて、3月からコレクション部門を正式に統括し始め、1943年の館長辞職以来失っていたMoMAにおける影響力を幾分回復したことが、11月のゲルニカ・シンポ開催を後押ししたことは言うまでもないだろう。それでは具体的に、バーはなぜゲルニカ・シンポ開催に至ったのか。その発端は、1945年3月に発表された、ジェローム・セックラーによるピカソへのインタビュー記事、「ピカソは語る」まで遡ることができよう(注11)。アメリカからパリ解放に従軍― 425 ―
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