鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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したアマチュア画家のセックラーは、解放後にフランス共産党に入党したばかりのピカソを訪ねた。ピカソは自身の政治的立場と芸術は無関係であるとして、作品の一切の具体的政治性を否定したばかりか、《ゲルニカ》についても初めて重要な発言を残す。牡牛のモティーフがファシズムを象徴していると解釈したセックラーに反論し、ピカソは、牡牛はファシズムではなく「野蛮と暗黒」を、馬は「民衆」を表すと述べた(注12)。こうした証言は、バーによるピカソのモノグラフ『ピカソ 芸術の50年』(1946年)の基盤となる。バーは、《ゲルニカ》を対フランコやファシズムを超えた、より普遍的な「『野蛮と暗黒』に対するプロテスト」と形容し、ピカソの最重要作品として論じるのに加え、牡牛と馬のシンボリズムの問題についても初めて言及している(注13)。それまでバーは、《ゲルニカ》に関しては常に「ピカソ自身はこの絵について何ら詳細な説明を加えていない」と断りを入れていた(注14)。しかしセックラーの記事の中のピカソの言葉は、バーの姿勢に大きな変化をもたらしたと言える。ところがその後、バーはスペイン、バスク出身の詩人フアン・ラレーアによる《ゲルニカ》論を渡され衝撃を受ける。それはニューヨークの画商クルト・ヴァレンティンが1947年9月に出版する最初の《ゲルニカ》研究書のために、パリ万博スペイン館の文化担当を務め、ピカソと《ゲルニカ》をよく知るラレーアに依頼したものだった(注15)。祖国を追われメキシコに亡命していたラレーアにとって、《ゲルニカ》はスペインの悲劇のシンボルとして重要な意味を持っていた。シュルレアリスムの精神で綴られた非常に難解なその論考の中でも、バーがすぐに反応を示したのは、ラレーアが《ゲルニカ》の馬をフランコ・ファシズムの象徴、牡牛は共和国の民衆を表すと独自に解釈していることだった(注16)。これは、セックラーのインタビュー以降暗黙の了解となっていた、牡牛を悪、馬を善とみなす解釈と真っ向から対立しており、またバーが築いた普遍的な傑作としての《ゲルニカ》像を揺るがす、明確で具体的な政治性を提示していた。バーは、シンボリズムの問題が混乱を巻き起こし、再び《ゲルニカ》が批判や議論の的となることを恐れたに違いない。《ゲルニカ》の意味解釈という新たな問題に直面したバーは、その解決に乗り出す。3.バーの書簡とシンポジウムの構想1947年5月21日、バーがパリに向けて一通の書簡を送ることから始まる、ピカソを取り巻く人々の興味深いやり取りは、ゲルニカ・シンポに至る経緯とその構想を浮き彫りにする。紙幅の都合上全て詳細に取り上げることができないため、当事者バーの書簡を時系列にまとめた〔表1〕を適宜参照願いたい。― 426 ―

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