バーはセックラーに続き、ピカソ本人から直接答えを聞き出すことを決める。しかし滅多に返信をよこさないピカソに代わり、彼の画商のダニエル=ヘンリー・カーンワイラーに書簡を宛てた。バーは、「《ゲルニカ》のシンボリズムについて極めて深刻な混乱があり」、牡牛と馬の矛盾した解釈を明らかに認めることで、ピカソ自身がその混乱を増長していると伝える。そして、セックラーとラレーアのどちらの言い分が正しいかピカソに直接尋ねて欲しいと頼んだ(表1-1、注17)。1週間後、カーンワイラーからピカソの返事が届く。ピカソは、鑑賞者それぞれが理解するがままシンボルを解釈するべきで、結局「公衆は見たいように見るべきだ」と伝え、バーの二者択一的な質問に答えることはなかった(表1-2、注18)。加えてカーンワイラーも、画面には虐殺された動物がいるだけだというピカソの新たな発言を尊重し、独自の解釈をバーに伝えている(表1-3、注19)。困惑したバーは、1ヵ月後にラレーアに書簡を送る。バーは、事態を説明し、「あなたの牡牛と馬の解釈が正しいと言える決定的な証拠」として、ピカソとの会話があったかどうかを尋ねた(表1-4、注20)。これに対しラレーアは、まず自身の論拠にピカソとの直接的な会話はないと答えた。そして、ピカソは自らの芸術の神秘や謎を尊重するためにわざとセックラーに曖昧な答えを提示し、今回も明言を避けたのだと忠告し、自分の解釈こそが正しいと信じて疑わない。ラレーアの書簡は、ピカソ本人さえも論破できるという自信と、公の場での弁明を求める発言で締めくくられていた(表1-5、注21)。ラレーアは夏の間に、アメリカに亡命していた彼の2人の友人、キュビスムの彫刻家ジャック・リプシッツと、パリ万博スペイン館を手がけた建築家ジュゼップ・リュイス・セルトに事態を伝えた。興味を持ったリプシッツは、《ゲルニカ》のイコノグラフィーに関するシンポジウムをラレーアに提案し、またその開催をバーに打診する(注22)。リプシッツの提案に賛成したバーは、シンポ開催のおよそ2ヵ月前からMoMAの展覧会・出版部門ディレクターのモンロー・ウィーラーとゲルニカ・シンポの本格的な準備に取り掛かる(表1-6、注23)。バーは、結局明確な答えに辿りつけなかった今、極めて複雑で主観的な解釈を有するラレーアと、ピカソの言葉を恐らく鵜呑みにしただけのセックラーの二人の討論では、シンポが平行線で終わるどころか泥沼状態になることを懸念している(表1-8、注24)。そこでバーは、当初から美術史家の参加を計画したり、ラレーアの原稿を事前に用意するなど試行錯誤を繰り返していた(表1-6~10)。最終的にリプシッツとセルトを登壇者に加え、またシンポのテーマに《ゲルニカ》の社会的意義についての議論も設定することで、アメリカで著名な二人の社会派の画家、ベン・シャーンとスチュアート・デイヴィスに参加を促― 427 ―
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