鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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4.《ゲルニカ》シンポジウム概観1947年11月25日の夜、約2時間に及ぶゲルニカ・シンポが、超満員の中、MoMAの講堂にて幕を開けた。以下では各登壇者の主張は要約しながら、記録原稿の入手によって明らかとなったシンポの一連の流れを概観し、その全体像の把握を試みる。3年前のピカソとの対話の実体験を経て、彼をリアリストと信じて疑わないセックラーは、当時のピカソの発言を根拠に、《ゲルニカ》が明確な政治性を含まない普遍的作品であると主張する。そして詩人であるラレーアの見解には論理的根拠がなく、馬をフランコとみなす解釈のみならず、ピカソを神秘主義者のように論じる傾向を激しく批判した(注28)。一方、ピカソのシュルレアリストとしての側面を強調するラレーアは、ピカソが知的で深遠な芸術家であるため、《ゲルニカ》が想像以上に複雑なシンボリズムで構成されていること、前述したようにピカソが真実を語るとは限らないことを忠告する。そして《ゲルニカ》がスペイン人芸術家によってスペインのために描かれた作品であるがゆえ、一貫してスペイン的な民族遺産に則した解釈を主張した(注29)。し、ゲルニカ・シンポの内容の充実と話題性の高まりを期待した。ゲルニカ・シンポは、司会者バーによる開会の挨拶と趣旨説明から始まる。バーは、シンポの2つのテーマ、《ゲルニカ》の社会的価値とイコノグラフィーの問題を提示し、前者の問題の背景として、この10年間の《ゲルニカ》に対する批判的、好意的双方の批評を要約する(注25)。次に、議論に入る前の導入として、ピカソに《ゲルニカ》を依頼した重要な担い手であるセルトを紹介し、1937年当時の状況や、《ゲルニカ》の委託、制作、展示の経緯が公の場で初めて証言された(注26)。セルトが話終わると、バーはいよいよ《ゲルニカ》のイコノグラフィーの問題へ移行し、主要モティーフである牡牛と馬に関して、セックラーとラレーアに代表される相反する解釈があると説明する。バーは、ピカソ自身に一度答えを求めたことを伝え、5月にカーンワイラーに宛てた書簡の内容とピカソの返事部分のみを会場で読み上げると、セックラーに話を譲る(注27)。続いてバーは足早に2人の芸術家から意見を求める。リプシッツは、批評家が時に作家以上に作品の本質を見出だす例として、ラレーアに自作を披露した時、彼の解釈が、思いがけずリプシッツの潜在意識の中のイメージと結びついたエピソードを紹介し、ラレーアの弁護に回る(注30)。一方デイヴィスは、モダン・アートを通して社会に向き合ってきた経験を通して《ゲルニカ》を擁護する。彼にとっては、《ゲルニ― 428 ―

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