カ》のシンボリズムもピカソの意図や主題さえも重要でなく、人々の日常や社会に直接的に衝撃や感動をもたらす《ゲルニカ》のダイナミズムこそが評価に値すると語った(注31)。最後の質疑応答では、登壇者同士の示唆に飛んだやりとりが繰り広げられ注目に値する。例えば、それまで発言する機会のなかったベン・シャーンは、《ゲルニカ》は良いポスターになるだろうか、という会場からの質問に対し、大衆が理解できない絵画は何であれ失敗作だと断言する(注32)。これに対し、リプシッツは大衆が絵を理解しようと自ら芸術を学ぶ姿勢も必要だと反論し、それゆえラレーアが作品解釈のアプローチの可能性を示したことの重要性を主張する(注33)。一方バーは、シャーンの言葉を受け、ピカソが大衆に理解できない絵を描く理由はピカソ本人がセックラーのインタビューで語っていると伝え、セックラーに該当箇所を読み上げるように促した(注34)。すると、ラレーアの《ゲルニカ》研究書の編集者で美術史家のウォルター・パッチが、痺れを切らして観客席から発言を始める。パッチは、ピカソの矛盾した発言の例として、アフリカ彫刻から影響を受けたことを決して画家が自ら認めようとしなかったことを挙げ、セックラーのインタビューの信憑性に異を唱える。そしてピカソの言葉に執着するあまり、ピカソが守ろうとする創造的思考の内奥を暴き、汚そうとする質問者達の愚かさをパッチが批判し、会場は大きな歓声と拍手に包まれた(注35)。バーは、自分自身もピカソを質問で困らせたかもしれないが、少なくともピカソはセックラーとの会話を楽しんでいたに違いないし、あのような率直な会話は見たことがないとセックラーを弁護し、そのすぐ後にゲルニカ・シンポは幕を閉じた(注36)。おわりに本稿では、主に書簡と記録原稿の調査分析を通して《ゲルニカ》シンポジウムの実態の解明を試みた。MoMAの威信をかけて《ゲルニカ》の獲得を目指し、同作の評価確立に尽力していたバーが、新たに指揮をとろうと試みた《ゲルニカ》のシンボリズムの問題は、大規模なシンポジウムの開催を導く。しかし、ゲルニカ・シンポは、結局参加者全員が「公衆は見たいように見るべきだ」というピカソのメッセージを体現する、見る者の出自や立場、思惑によって様々な主張や解釈が提示され錯綜する場となる。シンポ以降、バーが《ゲルニカ》の解釈の問題にそれ以上踏み込むことはなかった。MoMAはあくまで中立的立場を保ち、《ゲルニカ》の具体的な政治的意味を極力排除することで、反戦平和の象徴としてさらなる普遍化を推し進めたと言える。― 429 ―
元のページ ../index.html#440