⑵Cf. Oppler, Ellen C, Picassoʼs Guernica: Illustrations, Introductory Essay, Documents, Poetry, Criticism,注⑴Cf. Robles Tardío, Rocío (ed.), Picasso y sus críticos I. La recepción del Guernica, 1937-1947,Barcelona: Ediciones de La Central, 2011, p. 9; 林道郎、「《ゲルニカ》のオデュッセイア」、『うごくモノ「美術」以前の価値とは何か』、東京文化財研究所編、平凡社、2004年、150-161頁凡例AHB: Alfred H. Barr Jr. Papers (series, file), The Museum of Modern Art Archives, New York.Symposium (1947) : Barr, Alfred H., Jr. et al., Symposium on “Guernica” Museum of Modern Art, New York, それを物語る1955年以降の《ゲルニカ》の展示キャプションの最後の一文は以下の通りである。これまで《ゲルニカ》について多くの、しばしば矛盾する解釈がなされてきた。ピカソ自身は《ゲルニカ》に関する一切の政治的意味を否定しており、ただ戦争と野蛮に対する彼の憎悪を表現している(注37)対照的に、シンポで真っ向から対立したセックラーとラレーアは、そのままでは引き下がらず、記録原稿から自身の発言箇所を抜粋し、翌年それぞれ雑誌で発表している(注38)。これが、ゲルニカ・シンポの存在と「セックラー対ラレーア」の図式と牡牛と馬のシンボリズム論争の存在をより広く知らしめる一助となり、ゲルニカ・シンポは同作の図像及び主題解釈に関する多種多様な研究の原点の一つとなっていく。また、全体を通して露呈していたのは、ピカソの発言の信用性を巡る問題であった。シンポ最後のパッチによるセックラーへの批判は、彼を擁護し、同様にピカソの言葉に固執し続けていたバーに対する批判でもあったことは明らかであり、彼にとっては実に決まりの悪い結末であっただろう。ゲルニカ・シンポは、《ゲルニカ》研究に留まらず、ピカソと言う作家研究の方法論を考察する上で、またさらには作家の手を離れた作品をいかように解釈するかという美術史研究の危うい側面を孕む点で、教訓と示唆に富む事件であったと言えるかもしれない。Analysis, New York, London: W.W. Norton & Company, 1988.― 430 ―1947, New York: Master Reporting Co., 1947⑶ゲルニカ・シンポに関する論考が近年発表され、本稿で扱うバーの書簡や記録原稿の内容も取り上げられている。しかし西語論文であったため、MoMAとパリのピカソ美術館アーカイヴでの原文資料の入手と確認は不可欠であった。Giunta, Andrea, “El poder de la interpretación (o cómo
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