相澤正彦氏は、「遊行上人縁起絵」にみられるこのような豊かな群衆表現や添景表現に趣向を凝らした背景には、時衆の活動の野外性や集団性が影響していたことを指摘している(注6)。また、詞書筆者に着目して比較すると、清浄光寺(遊行寺)本と金蓮寺別本、金光寺本が同筆である可能性が示され(注7)、今後これらの諸本の調査分析を踏まえて精査する必要があるだろう。もし仮にこれらの諸本と金蓮寺本とが近しい制作環境にあるならば、中世の一遍・他阿の祖師伝およびその絵巻の展開の流布の過程において、四条道場派の拠点であった摂津・和泉・河内などの港湾都市と、同時に関東に興った藤沢道場派との教派を超えた関係性を更に深く掘り下げていく必要があるだろう(注8)。3、高僧伝・祖師絵伝制作ネットワークの可能性として先述したように、津田論文は金蓮寺本と佛光寺本「善信上人親鸞絵伝」詞書筆者についていくつか知見を述べ、南北朝時代の能書家である三条公忠が金蓮寺本詞書制作に携わっていた可能性を指摘している。三条公忠は14世紀に制作された「慕帰絵詞」の詞書筆者であることから、金蓮寺本の制作年代の上限がもう少し上がる可能性を考慮できるのではないか(注9)。また、画風においても、「法然上人絵伝」48巻本や「親鸞上人絵伝」康永本や照願寺本などの雰囲気を想起させることから、真宗系絵巻との密接な関わりがあることが想定できよう。14世紀は、一遍の法灯を継承するため、二祖・他阿が積極的に時衆教団の体制化を図った時期であり、一方で真宗においては本願寺覚如の体制回帰を図っていた時期であった。ここで、時衆と真宗双方において、法灯の正当性を主張するための教条的絵巻の制作の機運が高まった時代性を考慮するならば、当時の祖師伝絵巻制作をになっていた工房ネットワークにおいて、宗派を超えた何らかの往還があったと考えられるのではないだろうか。まとめ・今後の展望ここまでの調査および分析結果を踏まえると、金蓮寺本および金蓮寺別本の制作時期は、従来指摘されてきた室町時代よりも少し時代を遡る可能性がでてきた。また、本絵巻制作にあたって詞書筆者や絵師が教派や宗派間を超えた絵巻制作ネットワークを構築していた可能性を提示したい。今後、詞書と絵双方において、金蓮寺本と近似性が指摘される諸作品の調査分析を― 441 ―
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