1.田辺孝次と秩父宮殿下との出会い田辺孝次(TANABE, Takatsugu、1890-1945)は、明治23(1890)年金沢に生れ、大正2(1913)年東京美術学校彫刻科を卒業、大正7(1918)年同校美術史研究室の助手となり翌年から工芸史を講じていた〔図1〕。体格もよく、風貌や身嗜みから欧米人に劣らぬほどの洗練された紳士を感じさせる。そのため、美校では体育の授業も受け持っていた。田辺は、大正13(1924)年9月に工芸史研究のためパリをはじめ欧米諸国に留学した。その留学から1927年の帰国船上での秩父宮殿下との縁が、田辺の美術の教育や研究者としての後の人生に少なからず関わっていたと考えられる。その由㊶ 田辺孝次と朝鮮美術工芸研 究 者:京都大学 非常勤講師 朴 美 貞はじめに朝鮮の伝統工芸における総督府の施政は、主に「殖産復興」と歴史的遺物の発掘調査に関わる「文化財保護」という政策が施された。一方の殖産復興に関しては、朝鮮在来工芸産業の奨励補助、工芸技術教育機関の設立、博覧会出品、朝鮮美術展覧会における工芸部の新設などがあげられる。他方の文化財保護においては、朝鮮の古社寺・其の什宝物・遺跡などの保護と研究調査、博物館と美術館の設立と遺物の収蔵、古美術マーケットの運営等々があげられる(注1)。朝鮮伝統工芸の日本の介入によるモノの流動や日韓の職人たちの工芸技術の関わりも近年少しずつ明るみになってきている。日本国内の各処に収蔵されている朝鮮モノの中でも陶磁器類の占める割合も多く、最近でもどこかの蔵から出されたような朝鮮工芸モノがオークションに出回っている。一方、朝鮮工芸をめぐる議論は、関野貞の「植民地美術史論」をはじめ、柳宗悦や浅川巧などによる「民芸」概念を中心とする研究の蓄積が朝鮮工芸の歴史的位置づけを支えてきたといえる。中でも朝鮮総督府施政の中で、朝鮮人工芸家による日本留学、日本人技術者の朝鮮伝統工芸技術の習得、などによる和洋韓のハイブリッド(hybrid)性を宿す出品作が「官展」や「朝鮮美術展覧会」の工芸入選作の流れを主導していく。さらに、戦時色が濃くなると、朝鮮伝統工芸の商品的価値が高められ、次第に国民的アイデンティティー創造のモノとして言及されていく。その流れの中で、制度の中心に立って率いていた人が田辺(田邊)孝次である。田辺の自伝や日記、朝鮮工芸展覧会の図録編纂資料などを中心に、朝鮮美術工芸の近代的歩みに残したその足跡を浮き彫りにする。― 447 ―
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