鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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縁はまた後の朝鮮美術工芸にも深くかかわる契機となる。当時、大正天皇の第2皇子雍仁親王(1902-53)は1922年秩父宮となり、1925年からイギリス留学中であったが、1926年大正天皇の容態の悪化によりイギリス客船マジェスティックと日本郵船客船さいべりや丸を使用してアメリカ経由で帰国していた。このさいべりや丸で田辺は秩父宮殿下に「美術史」を御進講、その栄光が大阪毎日新聞の記事に上がった。「さいべりや丸で御帰朝途上にあらせられる秩父宮殿下に船中特に召され「東洋美術と西洋美術の比較」を御進講申しあげ絶大の光栄に浴した東京美術学校助教授田邊孝次氏は金澤市千日町の出身、旧師青木金澤工業学校長を始め氏の知人同窓は十四日の朝本紙をみるなり我事のやうに喜び、殊に二年三ヶ月の留学中實家の金澤市杉浦町越野捨吉方で帰朝の日を待ってゐる夫人美香さんとまだ父君を見知らぬ長男徹(三つ)さんとのお喜びははたの目にも涙ぐましいばかりである。田邊氏は明治四十一年の金澤工業学校窯業科出身直ちに東京美術学校彫刻科に入り大正二年卒業、そして同校助教授に任ぜられ美術史を講じてゐたが大正十三年西洋美術史研究のため海外留学を命ぜられ、主としてフランスのパリにあつてルーブル博物館その他に蒐集の古来有名な美術品に触れ、かたはらソロモン(ソルボンヌ)大学で美術史を聴講し、イタリー、ドイツ、イギリスの各著名博物館や美術館を歴訪し、特に西洋古代美術に関し精密な研究をとげたが最近一ヶ月間はアメリカにきてニューヨークに滞在し秩父宮殿下と御同船で帰朝することとなったものである。氏の専門は彫刻であったが今では美術史家として大村西崖氏に次いで重きをなし渡欧前は東洋美術史を詳しく研究してゐたので今回の留学では更に西洋美術史の研究を積み帰朝後は西洋美術史の講座を担任することになってゐる(注2)。」(「田邊教授の夫人や旧師の涙ぐましいばかりの喜び」『大阪毎日新聞』昭和2年1月16日)さいべりや丸で帰国した次の2月に秩父宮殿下の御成婚があり、御用の食器の選定を田辺に任されていた。当時の秩父宮殿下は、梨本宮方子と結婚していた李王(李垠)殿下とは赤坂での邸宅も近く、親交が深かった。共に様々な展覧会に招待され、美術品の鑑賞だけではなく東西の美術品の収集にも大変関心を持っていた。当時の日本国内では、フランス現代美術の人気が高かった。フランス人画商エルマン・デルスニス(1882-1941)兄弟は、ロダンなどを日本に紹介し、日本人の世話もしていた。兄弟は大正11(1922)年春フランスから多数の美術作品を携えて来日し― 448 ―

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