鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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④竹内久一研究―その活動と影響をめぐって―研 究 者:井原市立田中美術館 学芸員  田 中 純一朗はじめに竹内久一は、明治期の内外博覧会における大作彫刻の発表(注1)、あるいは東京美術学校(以下、美校)に依嘱された仏像模刻事業への従事によって知られる(注2)。久一の生涯における重要な出来事は、奈良遊学中に岡倉天心と邂逅したことである(注3)。実際、明治期の久一の活動は、開校まもない美校への奉職、博覧会出品や仏像模刻事業への従事など、天心の彫刻振興策と密接に連動している。特に、《神武天皇立像》〔図1〕や《伎芸天》〔図2〕など大作彫刻の制作背景について、そこに与えた天心の影響に関する議論が重視されてきた。そのため、これまでの久一研究は、天心の彫刻振興策の枠組みにおいて理解・評価されてきたといっても過言ではない(注4)。だがいっぽう、久一は彩色木彫による置物や人形、肖像彫刻、大量生産の頒布彫刻なども手掛けている。先行研究でも指摘されるように、前近代的な要素を残したこれらの作品は、天心の美意識とは対照的な価値観に基づいており(注5)、久一の制作活動が必ずしも天心の彫刻振興策の域内に留まらなかったことを示している。以下、本稿では久一の多彩な制作活動を追いつつ、次世代の彫刻家たちとの関わりについても検証していくことにしたい。1 大作主義からの再転換久一の大作彫刻や仏像模刻などの制作活動は、明治20年代を中心に展開された。古田亮氏は、同時期の彫刻界を「ジャポニスムに裏付けられた輸出品奨励政策が生んだ小品主義から、国家主義を背景にもつ文教政策が生んだ大作主義への転換」期としている(注6)。対外的緊張と国家主義の高揚が彫刻界にも波及した時期、久一の大作彫刻は、時代の欲する主題を忠実に表現したものといえる。《神武天皇立像》は新聞『日本』による「日本歴史上人物の絵画若くは彫刻懸賞募集」(明治22年)の当選作であり、翌年の第三回内国勧業博覧会に出品されて脚光を浴びた。同作は、神話的君主の面貌が明治天皇に重ね合わされることで(注7)、「万世一系」の皇統を表象している(注8)。― 35 ―

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