鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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た。当時国民美術協会の会頭であった黒田清輝の依頼により、三越に勤務していた美術評論家・黒田鵬心(1885-1967)が日本側実務担当者となり、第1回「仏蘭西現代美術展覧会」が農商務省商品陳列館で開催された。同展は昭和6(1931)年まで10回にわたり毎年継続され、一般の日本人がフランスの同時代美術を鑑賞する貴重な機会を提供した。絵画はオリジナルを展示していたが、彫刻作品は購入者も少なく、その重量や輸送費を考慮し、石膏に抜いた作品が展示され、展覧会終了後に日本に寄贈された作品も多い。ロダンの石膏製の作品も数点が東京美術学校(現東京藝術大学)に寄贈されている。田辺がデルスニス兄弟と知り合ったのは、国民美術協会の黒田清輝のなき後、会頭を務めた中條精一郎の紹介であった。田辺は後に、中條精一郎に対する追憶の中で彼をイギリス形の紳士と称賛した(注3)。当展覧会の際に、田辺は秩父宮殿下を中心にデルスニス兄弟をまじえて案内・解説を行った〔図2〕。ほか、朝倉文夫の彫刻展の際には、李王殿下夫妻を案内し、作品解説を行っていた様子が写真に納められている。田辺は秩父宮殿下との縁で李王を紹介され、それから李王殿下からの朝鮮美術に関わる依頼や美術品購入に関する相談、李王家博物館コレクションの調査・陳列品の選定、新築された洋風の徳壽宮美術館に当時の日本美術品の選定や展示企画をも委託される。ほか、朝鮮美術展覧会(以下「朝鮮美展」と略称、1922-44)に初の「工芸部」が1932年に新設されるや、その初の審査委員を務める。田辺が初めて朝鮮に足を運んだのは、朝鮮美展工芸部新設より3年も前の学術研究のため美校からの出張命令を受けた昭和4(1929)年である。「多忙な昭和3年がすぎて、4年に入ってから私は工芸史の研究に本腰を入れはじめた。それには朝鮮の工芸をみて、その源流を調査する必要を痛感したので、春の休日を利用してはじめての朝鮮旅行を思いたった。ちょうど楽浪郡の発掘がすすみ、小恒谷氏は朝鮮総督府の嘱託として発掘品の模写をやり、六角紫水教授は漢代漆器の研究に血眼になっているときだった。私は六角教授とともに渡鮮し、はじめてのことであるから各地を巡回した。慶州、扶余、京城、楽浪、開城、平壌など約二週間の実地調査は私の工芸史の知識を非常に豊富にし、また見聞を広めた。帰京して直ちに奈良地方の古美術実地指導に17日間京阪に出張したが、指導にも自ずから新しい見解も加わり、私自身も新しいノートができた(注4)。」(田辺孝次手記『我が生涯』より抜粋、昭和4(1929)年所収)田辺の手記の中の「楽浪郡の発掘がすすみ、発掘品の模写が行われ、六角紫水教授― 449 ―

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