は漢代漆器の研究に血眼になっているときだった」ことが示すように、丁度そのころには、朝鮮古跡(古墳)調査が進行する中、中でも「楽浪」への関心が高まっていた。関野貞による朝鮮古跡(古墳)発掘調査報告が刊行され、鳥居龍蔵、今西龍、藤田亮策、梅原末治、小田省吾らによる平壌付近の古墳遺跡調査が進められ、楽浪の遺品をめぐる議論が盛んであった。大正15(1926)年の『国際写真画報』には「朝鮮楽浪の古墳発掘三千年前の脂粉猶携帯を存す」という見出しで、楽浪工芸の発見とその価値を世界の驚異として内外に示した。中でも内部は朱漆、外部は黒漆で塗られた漆盆であった。その一端にある仙人を現した彩画を支那最古の人物画として評価し、漆器技法を用いた長き保存状態を驚異の目で見ていた〔図3〕。田辺が手記の中で言及している六角紫水(1867-1950)は、美校の教授を勤めながら楽浪漆器工芸技法の研究に精進し、和風との折衷を試みていた。第10回帝展(1929)入選作《楽浪漆器研究の内竹林の圖硯筥》と第15回帝展(1934)入選作《楽浪研究の内非常時風景手箱》などは、そのような楽浪古墳出土品の漆器工芸品の色漆と漢代の故事を描いた風俗絵画等々の研究を基に制作した作品である。彼は、田辺に引き続き、第20回と第23回の朝鮮美展工芸部審査委員も努めたが、楽浪漆器技法から類推したアルマイト刀漆器、彩漆などにも造詣が深かった(注5)。田辺が初めての朝鮮実地調査で得られた収穫は、東西美術をめぐる比較とその歴史的整理と工芸に関する歴史的位置づけであった。以前の欧米美術の見聞と知識を基に、約二週間の朝鮮の旧名所をめぐる実地調査、さらには帰京の直ちに奈良地方の古美術実地指導のための京阪での現地踏査を通して、日本の美術工芸の位置づけを模索していた。田辺は、人類の文明の眼差しとして欧米文化を軸に、それを東洋の枠に照らし、今度は、東洋の中から日本の美術工芸の文明史的位置づけを究明することであったと考えられる。田辺は朝鮮実施調査の翌年1930年に『東洋美術史』を世に出す(注6)。当時の田辺の美術史観がどのようなまなざしであったのかは、平凡社社長下田の言葉を借りれば、「輪切り」方法論であったとされる。「田辺は美校の助教授のときパリソルボンヌ大学に留学し、フランス彫刻史、イタリア彫刻史を学び帰国後しばらくして教授となった。著書にまず『イタリア彫刻史』があり、あとは大村西崖教授の指導をうけ共著者となった『東洋美術史』(上・下)がある。私が矢代幸雄にいわれたことばを借りれば、明治生れの世代にとって東洋と西洋の両方の美術史を研究するのは当然のことであり、それは、― 450 ―
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