十字路に立って交通整理をする交通巡査のようなものであった、という。平凡社の『世界美術全集』(第一次)は田邊(田辺)孝次の提案によって骨組が決まったが、それは「輪切り」の方法と俗によばれるようになった年代順に各国、あるいは各芸術のタテ軸の流れをヨコに切りとってゆく方法だった(注7)。」『東洋美術史』の中で朝鮮工芸に関する田辺の見解は、支那美術の影響に言及し、李朝に下り、次第に衰退してきたことを指摘することで、いわゆる関野の理論を受け継いでいるといえる。また、李朝の工芸の衰退を指摘するも「日々の生活を支えるための雑用の器具」として、当時柳らが推進していた「朝鮮民芸」と呼ぶものに李朝工芸の価値を見出すとも言及している(注8)。しかし、田辺は朝鮮工芸の中で高く評価していたモノは、螺鈿をもって四方に山水模様を施した装飾ダンスであった(注9)。田辺が朝鮮各地を調査で回っていたその年の秋には、総督府主催の施政20周年記念朝鮮博覧会が朝鮮王宮で開催された。ちょうど王宮の敷地の中で朝鮮総督府も新築され、日本と朝鮮の間の文明の対比が強調されていた。2.朝鮮美展の彫刻工芸部の新設、審査委員となる朝鮮美展は、1922年「文化政治」の一環として創設された。朝鮮美展に彫刻工芸部が新設されたのは1932年第11回展からである。この時期に工芸部を新設した主な理由は、総督府による工芸産業の復興とその生産力を増進するための方針であり、また朝鮮美展有力出品作家の要請でもあった。これは、朝鮮美展の運営構造からすると日本国内での帝展に1927年美術工芸部新設の流れとも軌を一にしているといえるだろう。しかし、何よりも1930年代の植民地拡張の準備を整えていた日本の対外事情からすると日本と植民地の間の工芸品をめぐる商品的(経済的)・精神的価値の高揚を求める現状が待ち受けていたと考えられる。田辺の手記には、「奈良における古美術実地指導がおわって帰京すると、正木校長はさらに私に、朝鮮美術展覧会に今回新たに第三部として彫刻と工芸部が新設されるにあたって、その第一回の審査員として出張してくれとのことで、かつ水野錬太郎総督府政務総監時代より朝鮮統治の文化方面は特に大切な仕事であるから君にやってもらいたい、との事であった」と記されている(注10)。田辺は1932年の工芸部新設から以後1936年まで5回に亘り審査委員を務めた。手記からは当時の彫刻工芸部の新設に関する朝鮮側の状況や自身の労力が窺える。― 451 ―
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