鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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「昭和7年5月1日の朝、私は釜山の波止場で奉天行の列車のなかにあった。釜山の駅長は私をたずねてきて、総督府からの一等パスを渡してくれた。朝鮮鉄道全線で一ヶ月期限のものである。私は後部の展望車に入って、図書室から朝鮮一般の雑誌を出して読んだ。急行「のぞみ」は午後1時に京城駅に到着した。駅には総督府の学務課長や展覧会関係者が出迎えてくれた車で長谷川町の備前屋に入った。以後、私はこの備前屋を常宿とした。早速総督府に出掛けて打ち合わせとあいさつをした。仕事は今年初めての第三部、即ち彫刻と工芸との出品の件であるが、半島は両班の思想強く、四君子(即ち画と書)は李朝時代から士太夫・・・としたが、手で物を作ることと音楽とは士太夫のなさざるところ、即ちいやしくも文武両班の士人は下劣の事と思っているので、作品があっても出せぬ、という次第である。依って翌日から総督府の自動車で小宮を案内人として私は第三部の出品勧誘にまわった。開会前までに彫刻ようやく15点、工芸40点という成績であったが、・・・(不明)・・・事情まったく止むを得ぬものがあった。会場は総督府の元の陳列館で場所も建物も悪く、ちょうど昔の上野公園竹の台陳列館のようであった。会期に先立って、宇垣総督はその小宮に審査員一同を招待して、日本食の丁寧な晩さん会を開催して種々話された。また開会当日の夕方は政務総監が京城第一の料亭に一同を招待して妓生と芸者を席に侍らせた。私はおおいに工芸の朝鮮に発達すべきことを説き、朝鮮の工芸品を鑑賞し、同時に朝鮮料理を味い、朝鮮の風光と文化を賞賛して楽しかった。これが私の朝鮮と縁が深くなるはじめであった(注11)。」朝鮮美展のため滞在中に田辺は朝鮮有力人士とのお付き合いもあった。中でも朝鮮古美術展覧会朝鮮人画商(李禧燮)との出会いは、朝鮮工芸をめぐる新たな展開を生み出した。「この秋、京城に滞在している間に種々の人に会ったが、その中に李禧燮という人がいた。この人は両班で一時大臣を勤めた人もあった位の家柄であるが、日韓併合以来商人になって大漢門の前に骨董商の店と、長谷川町に朝鮮箪笥の店をもっている。私の助手(美校)の鎌倉芳太郎(のち人間国宝)君からもきいていた人で、品の良い立派な人柄であった。なんでも日本で朝鮮工芸の展覧会を開催したいということであった。私は朝鮮のため尽力しようと約束していた。同君は喜んで珍しい朝鮮料理に案内したり、公園を散歩して写真をとったり、半島人の― 452 ―

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