知人で鮮展に出品すべき工芸家を紹介してくれたりした。やがて帰京すると東京へやってきて、荷物をみてくれというので見にゆくと大変な数量をもっているので、鎌倉君にも相談して、これを国民美術協会に主催方を依頼し、正木先生を顧問とし、協会会長の大河内子爵を委員長として、石井柏亭、中條精一郎、小倉右一郎、香取秀真、佐藤功一、鎌倉芳太郎、私が委員となり、私はその図録を編集する役をひきうけたので、正木先生の序文を書き、これを掲載する許可を得て、立派な図録を延々1ヶ月半くらいで作り、11月から日本美術協会の列品館で展覧会を開催した(注12)」(1934年秋)3.朝鮮工芸展覧会の開催田辺は1933年には李王職の嘱託となり、秋から徳寿宮で現代日本美術の展覧会を開催し、それを世話することになった。李王家の晩餐に招かれ、李王殿下より年額一万円の御買上と、将来は全御収蔵品で陳列する計画の李王殿下の美術に対する熱心なお気持ちを拝聴する。そして田辺は、正木委員長の御意見をきいて、博物館、文部省、美術学校、所蔵家、作家自身と種々交渉して、日本画、仏画、彫刻、工芸品百点余を文部省御用達の長岡に命じて朝鮮に送った。壽宮美術館に日本の現代美術品を陳列し、国民の教育を図る企画であった。その傍ら、日本国内で朝鮮工芸展覧会開催のため、東奔西走力を尽くし、翌年の1934年には実を結んだ。朝鮮工芸展覧会は1934年から始まり1941年までの間計7回開かれた〔表1〕。先述したように1930年代には内外に楽浪工芸が最も高く評価された。田辺もこの朝鮮工芸展覧会図録の中にも「縷々世界の学界を驚かす発掘品を得て、今や其等の遺品を通して、漢代文化の大要を知り得る位である」とある通り、「考古学的研究の範囲に入るべきもの」としての扱いであり、さらに、「其作品が殆ど移住した漢民族の作製に係るもの」「純粋の朝鮮工芸とは言い難い点」「楽浪発掘の工芸は、単なる工芸品ではない」などの評価がなされた。つまり、朝鮮古代の楽浪と中国漢代文化との繋がりを模索する一方で、楽浪における朝鮮の独自性を軽んじていることが窺える。このような楽浪と中国漢代文化との繋がりを模索する動向は、おそらく、日本の中国大陸進出と関連し、新たなアジア歴史の再編が必要であったからではないか。言い換えれば、日本古代と中国古代との歴史的神話(結び)が模索されていたと考えられる(注13)。1934年には、7月に「朝鮮古陶資料展覧会」が、11月には「朝鮮工芸展覧会」が啓― 453 ―
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