㊷ 近代京都における日本画の学習と写生─木島櫻谷写生帖の調査から─研 究 者:泉屋博古館 学芸課長 実 方 葉 子1.はじめに明治中頃から昭和初期にかけて活躍した京都の日本画家、木島櫻谷(1877-1938)。卓越した技術と詩情あふれる表現がおりなす平明な画風で知られる彼は、明治30年代、20代から頭角を現し、京都画壇では菊池契月とならび竹内栖鳳の次世代リーダーと目された。第一回文展において二等を受賞して以後、文展入賞の常連となり、大正から昭和初期にかけて文展・帝展審査員を歴任するなど、京都のみならず日本を代表する実力派のひとりであった。櫻谷が学んだ今尾景年は鈴木松年の弟子であり、松年は蕪村を慕い円山派、岸派など諸派を折衷した画風で一家をなした。幕末以来の京都画壇のエッセンスをくみ取った師系のもとで修行した櫻谷は、壮年期の大正頃には「大正の呉春」「最後の四条派」などともあだなされるにいたる。この評言には賛否半ばする響きがあるが、当時の若手からは守旧派と見なされがちだったことは確かだろう。しかし生涯に何度も訪れた緩やかな画風の変化は、京都画壇の伝統継承だけでは語り得ないものがある。しかしその詳細はいまだ検証されていないのが現状である。その手がかりになりうる資料群が、木島櫻谷ゆかりの資料一切を所蔵する公益財団法人櫻谷文庫にある。“写生帖”とよばれる櫻谷の大量の帳面類だ。長持いっぱいに納められたそれらは一見して櫻谷が長い時間をかけて描き綴ったものと理解される。明治大正の日本画壇には革新の動きが寄せては返す波のように現れたが、その中で京都の一画家が何を見て、どのように捉えていったか─櫻谷写生帖は彼の「目」と「手」の軌跡を追う好資料であろう。櫻谷写生帖研究は、その分析を通じ櫻谷の絵画制作のバックボーンを明らかにすること、そしてその姿から近代の日本画がたどった行程の一側面をうかがうことを目標とするものである。しかしながら膨大な資料の解析は一日ではなしがたく、本稿ではその第一歩としてまずは資料を整理し全貌を概括、そのうえで画業の前半にあたる明治期の櫻谷の動向について若干の分析を試みることとする。2.櫻谷写生帖の概要現在櫻谷文庫に保存される木島櫻谷の写生帖類は568冊にのぼる(注1)。これらの半数は櫻谷没後3年の昭和15年(1940)、財団法人として櫻谷文庫が設立された時に― 458 ―
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