鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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られる。とりわけ山水が多く、なかでも20代半ばから30代半ば頃まで毎年でかけた写生旅行の記録が圧巻だ〔図4、5〕。表題には「雲影濤声」「一陽来復」「緑蔭幽草」など風雅な漢語が選ばれており、単なる記録や手控え以上の趣を湛える。一方、植物や動物を集成したものは、題材名を登場順に記載して検索の便を図っており、その点は小帖と同様である。また縮図や画譜写本は11冊含まれる。大帖は小帖の倍以上のサイズで、総じてより見応えがある。ここで表紙や内部記述から制作年ごとに集計すると〔表〕、最も早いのは明治25年、年末に景年塾に入門した直後の小帖であった。その後は増加し明治27年から33年頃、すなわち10代後半から20代前半が最も多い。年記のない小帖には未熟で生硬な筆づかいも目立ち、多くが10代のものと推定される。一方大帖は、年代判明分はおおむね明治36年から41年頃を中心とし、半数にのぼる年代不詳分も筆致や登場人物などからこの時期の筆と考えられる。小帖のほうが早い時期、ことに景年塾に所属していた頃を中心とし、大帖は独立後自ら画塾を主宰し、文展はじめ活動が全国に広がる時期と重なる。2)スケッチブックある時点からスケッチブックも愛用したようで、現存数は220冊にのぼる。大きさや装丁は多様で、最も多いのが黒またはべージュの布貼表紙で短辺綴じの大・小2タイプである〔図3〕。いずれも洋紙に鉛筆が用いられ時に淡彩が施される。内容はやはり和綴帖と同様に広範だが、あまり系統だってはおらず、筆致や描写にもばらつきがある。数頁しか描かれていないものも多く、和綴帖が一冊につき20頁から50頁、多いときは80頁を越えるのとはやや性質を異にする。ある時期は和綴帖とスケッチブックが併行して使用されていたことからも、何らかの使い分けをしていたことが想像される。一部の表紙には「虎」「馬」など内容を示す貼紙はあるものの、署名、年代など一切見当たらない。わずか2冊のみ明治42年(1909)と判明すること、また大正2年(1913)に建設し亡くなるまで過ごした衣笠の自邸の庭園が繰り返し描かれることなどから、おそらく明治40年前後から後半生を通じ用いられたのだろう。それはちょうど櫻谷が文展の連続入賞で制作依頼が増加する一方、京都市美術工芸学校の教員奉職(明治45年)や各種の審査員委嘱も度重なり、多忙になってきた時期であった。3.写生縮図帖にみる櫻谷の絵画学習今般の調査では櫻谷文庫に所蔵される櫻谷の帳面類は、若い時期のものが比較的ま― 460 ―

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