鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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とまっていることがわかった。本章ではそこから垣間見える絵画学習過程の一面をとりあげる(注3)。1)運筆櫻谷の絵画修行は明治25年12月、今尾景年に弟子入りしてから本格化する。景年の画塾は5年での修了を目安とし、教授内容は運筆、粉模、写生、着彩、意匠、新図、講義からなり、月に二度は写生の日、うち一度は景年師の講評の時間も設けられた(注4)。平素も塾生が集い、思い思いに運筆、粉本模写、写生などを行っていた(注5)。当時京都での絵画学習でなにより重視されたのが「運筆」で、各画塾では師の手本を習字の稽古でもするように徹底して練習させたという。入門時、「櫻谷」の号とともに景年から渡されたのも「若松の絵手本」であった。初期の櫻谷写生帖にも四条派風の付立で一頁ごとに花や鳥獣を描くものが見える。例えば入門半年後の明治26年6月の1冊では、松に鶴、鴨、猿、朝顔、雀、亀、梅、波に松、柳、中国人物…と配列にまとまりがなく、景年塾の絵手本に基づくと想像される〔図6〕(注6)。いずれも当時の絵画に一般的な題材で、花鳥から山水、人物まで一通り描けるような配慮もなされる。これと2年後につづられた1冊を比較すると、鍛錬の成果あって側筆を自在に使いこなせるようになっており〔図7〕、一筆で一気に対象の形態をつかみとる青年期櫻谷の速度あるダイナミックな筆致の萌芽がここに感じとられる。なお、景年塾では運筆修練のひとつとして席上揮毫にも熱心だった。定例の研究会では塾生が順番に参加者の面前で筆をとるのが決まりで、先輩たちに景年師も加わり一筆一筆辛辣な批評が飛んだ。一面気弱な櫻谷はこれが苦手でながらく胸のつかえだったというが、それは平面的な絵手本の模写だけではつかみ得ない筆づかい、筆の角度や速度、圧力、運動の方向などを伝えるのに有効な方法だった。2)縮模運筆と同様入門間もない櫻谷が熱中したのが、新古画の縮模であった。小帖を中心にその頃とおぼしき縮図帖は60冊ほどにものぼる。原本の種類は近世以前の日本絵画のほか、中国画や同時代の絵画など新古画全般で、題材も山水人物花鳥と満遍なく出そろう。原本に接した年月日や場所、筆者などが書き添えられるケースは多くはないが、目を引くのが明治20年代後半の如雲社での縮写であろう。如雲社とは幕末から明治にかけて京都の主要画家が結成した団体で、明治29年後素協会に組織替えするまで続いた。明治20年代後半頃の会員といえば、今尾景年はもちろん、森寛斎、鈴木松年、久保田米僊、菊池芳文など錚々たる顔ぶれで、それぞれが一門を率いて参加していた。主な活動は月一回の例会で、会員が自作を出品し、また― 461 ―

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