鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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世話人が社寺や所蔵家から借用した古画を展観して、研鑽と交流の場とした(注7)。若き日の上村松園も欠かさず出席しては縮模し参考にしたといい(注8)、如雲社の活動は多くの若手画家を育てることとなった。櫻谷も熱心な参加者の一人で(注9)、明治26年3月、27年1月、8月の縮図が現存する。丹念に写されてはいるものの作者などの記載がほとんどないため、陳列品については推測の域をでないが、絵巻、中世水墨画、狩野派、文人画とさまざまで、なかでも円山・四条派風の作例が目立つのはやはり根強い土地柄を感じさせる〔図8、9〕。景年塾の養素会でも妙心寺にでかけ狩野探幽の襖絵を縮模したことがあった。このほか、櫻谷は社寺の虫干しや博物館の陳列にも写生帖を携えて出かけている。総じて縮図は明治27年から33年にかけて集中し、広範なジャンルを貪欲に吸収しようとする20歳前後の櫻谷の姿が浮かぶ。また『美術画報』の写真図版はじめ、なにかの挿図の写しなどもあり、書籍や雑誌もまた貴重な情報源だった。中には欧米の書物の石版画や銅版画の挿図らしきもみえ、西洋絵画への関心もうかがえる。また、10代のころ『小年園』などを愛読し小堀鞆音に心ひかれ当初は歴史画家を目指していたという櫻谷らしく、歴史画だけを集めた冊もある。さらに明治38年から40年の冊には、近世の風俗図が多く、時勢の流行に加え、制作上の興味をも反映するようだ。しかしとりわけ興味深いのは、河鍋暁斎の『暁斎画談』や菊池容斎の『前賢故実』などの画論書の本文や図版を抜粋することであろう。『暁斎画談』は入塾前の25年夏に写している。また菊池容斎については、入塾後の明治20年代後半に傾倒していたとの自身の言及を裏付ける。これら近代の日本画形成に少なからず影響を及ぼした先見的な著作に櫻谷が早い時期から触れていたことは重要である。3)写生櫻谷の帳面類のうち大半をしめるのがやはり写生である。生涯、何より写生を重んじ片時も写生帖を離さなかったという櫻谷だが、「写生本 第一」と表紙に記される一冊こそ景年塾に入門して最初の記念すべき写生帖であろう。「明治二十五年十二月以降」とあるので、挨拶に出向いた直後から景年塾の写生会に参加したようだ。初出は12月13日の文鳥、アカヒゲ、雄鶏、コマドリで、鉛筆のような細く均質な線を短くつなぎ、生硬ではあるが1点1点慎重かつ確実に対象の形態や質感を写し取り、丁寧に彩色までなされる〔図10〕。入門時にはすでに観察眼、描写力とも一定の実力を備えていたことがうかがえよう。以後、翌年1月の写生会では亀、シギ、カラス、2月はカワセミ、アツトリ、狸が続く。景年塾の写生会では月ごとに素材を用意する係がいたが、鳥獣の調達には苦労したようで、死骸が持ち込まれることもしばしばだった。― 462 ―

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