櫻谷はそのような景年塾写生会の様子をも写生している〔図12〕。町屋の二階の塾生部屋で、10人の若者が輪になり対象を取り囲む。素材は数種類の鳥かご、そして瓶に挿された草花類のようだ。各々、自分の名を記した道具箱らしきを机にして筆をとり、何人かは紙や和綴帖を片手に持って描く。明治27年の「写生集」は筍、貝、芍薬、桃花…と、見開きごとに一題材をとらえ、写生を重ねた後の浄書のような端然とした雰囲気がある〔図11〕。各頁の端には別人の印と「一」「二」といった数字の朱書がみえるが、今尾景之氏によれば、これはいわば塾の定期試験の答案であり、同じ課題での順位をつけたものらしい。印は評価者のもの(景年塾の重鎮たち)で、まれにみられる景年印は師自身が高く評価した証であろう。「一」「二」は学年をあらわすという。ここに見る写生画は岩絵具を用い裏彩色も施した本格的なもので、博物画のような見応えもある。また景年塾では日帰りや一泊で京都近郊へ写生にでかけることもあった。櫻谷は景年のもとから独立し自ら画塾を主宰するようになってからも、かつての塾友たちと鷹ケ峯、貴船、大原などに足を運び、道々の風景や建物、農具や家畜など目に付いたものを大変な速さで次々と写生した〔図13〕。いうまでもなく、櫻谷はこれら塾の写生会以外に、日常に素材を見出し、また非日常の素材を求め各方面にでかけ写生し続け、それが櫻谷画の核になっている。年代を追ってそれらを見ていくと技術の上達や方法の変化もうかがえる。その検証は山水、花木、鳥獣、人物それぞれに行う必要があるが、本稿ではその一例として虎を見ていこう〔図15~17〕。明治30年には輪郭線、縞模様ともに短線を重ね形を正確に写し取ることに腐心するが、34年には輪郭と模様で捉える点に変化はないものの、いずれも線のストロークは延びて滑らかで、縞は側筆を駆使して一気に引き、全体として毛並みの流れや筋肉の付き方などが自然に表される。景年塾での修練の成果か、付立を体得し見事に使いこなしている。39年になると墨調は先程の潤ったものからより乾いたものに変化し、線質も直線的になり省略もめだつ。すなわち細部を丹念に写すのではなく、全体の塊を大づかみに把握してすばやく写し取る方向へ転換している。そこには長年にわたる細部写生の反復でその姿を十全に把握した後に、一歩ひいて虎の動きや存在そのものを空間ごととらえるような態度がうかがえるだろう。西洋画でいえば、短時間で簡潔に対象を写すクロッキーに近い感覚だろうか。詳細に観察すると、これら墨線の下にはよりラフな鉛筆の線が見え、この頃には鉛筆描きスケッチブックの利用も始まっている可能性がある。― 463 ―
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