鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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4.櫻谷と写生櫻谷は景年に入門して間もない頃、運筆や縮模に熱中して師から叱責を受け、自然にむかう心得を説かれた(注10)。当時、流派や系統を尊重して画題から用筆までその規矩の遵守こそ至上といわれた京都画壇にあって、景年もその領袖と見なされがちだが、景年自身、山本渓愚に本草学を学び、客観的な観察による写生を重んじ、その成果は『景年花鳥画譜』に実った。景年が重視した写生とは、実物を見て先人の見出していない自分独自の姿を見出すことであり、実物に徹底して向かいながら単純な客観表現ではなく、“東洋絵画独特の描線で自家独特の精神的色彩を帯びさせる”ことを説いた。塾の品評会で師の描かない人物画を出品したとき、先輩たちの冷淡な感想に反し、景年は大いにほめたという。塾生時代の櫻谷が塾通いよりも写生に出掛けることが多かったというのも、鷹揚で柔軟な景年師の理解があってのことであろう。そんな櫻谷の写生への思いをうかがう一文が明治36年の1冊にあらわれる「題写生帖自警」で、写生帖に対し、“汝は生涯の友、片時も離れずいずれ大海山川を収め、画家としての大成をともに目指そう”と語りかける〔図14〕。青年の熱い語調には写生を制作の根源としていく固い決意が漲るが、彼にとって写生の意味とはいかなるものだったのか。中年期の著作によると(注11)、写生とは単に形を紙に写し取るためだけではなく、何十回と描いて深い自然観照にいたりその印象を脳に留めるためのものであり、写生帖なしでも瞑想で蘇るようにするのが目的である。そして自己の精神や思想を通した自然の再現こそが芸術であるというのである。しかしてその精神の源もまた浩大無辺な自然に接する中ではぐくまれるものだと。櫻谷の写生観は、景年から継承した部分もありながら、師が東洋独特の描線、つまり運筆に重きをおく点では一歩はなれ、櫻谷はより精神性に傾く傾向がある。また一方で、明治30年代半ばの京都といえば、京都では竹内栖鳳や山元春挙が欧米渡航を経て西洋画の技法をとりいれようと模索していた時代である。横山大観が西洋画の写実表現が精神の欠如した空疎なものと見たのと異なり、栖鳳はそれを単なる無機的技法ではなく写意に重点があると感じて、日本画との融合をはかった。明治38年、山田桂華編『日本画の将来』(山田芸艸堂)はまさにその渦中で刊行された。表題のテーマにつき12人の京都の画家に取材したもので、冒頭から竹内栖鳳、山元春挙、谷口香嶠、都路華香に続く5番目に掲載される櫻谷の論説では、古代から常に外来の変化を受容してきた日本画の歴史を祖述しながらそこに精神の存在が欠かせなかったとし、今日もまた洋画の技法のみを学ぶのでなく、その精緻な科学的思想を時間をかけて咀嚼し両者の調和をはかるべきと述べる。こういった発言のうちに栖鳳や春挙の影響がどれ― 464 ―

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