宮毬紗「夭折の日本画家 木島桃村〈その1 概要〉・〈その2 資料から見る京の町の日本画⑵ ただし一部は展覧会『没後50年 木島桜谷』(京都市美術館、1988年)で展示されている。また本研究の初期報告を兼ねて、やはり一部が展覧会『没後75年 木島櫻谷─京都日本画の俊英』(泉屋博古館、2013年~2014年)で展示された。⑶ 明治京都画壇の絵画指導のあり方にふれた近著に中野慎之の論考がある。「京都画壇における⑷ 今尾景之「景年画塾と櫻谷の芸術について」(せんおくアートサロン「櫻谷芸術を語る」講演。⑸ 以下、景年塾についてはおもに次の著作による。木島櫻谷「憶昔篇(下)」『中央美術』12(10)⑹ 景年が中学生の教科書として原画を描いた版本『景年習画帖』(山田芸艸堂、1905年)とは画題、⑺ 「如雲社諸先生名録」(京都工芸繊維大学附属図書館蔵)所収。五十嵐公一「第三回京都博覧会注⑴ ただし、1冊は櫻谷の弟、木島桃村の古代裂模写帖が含まれる。菊池芳文に師事した桃村は22ほどあるかさだかではないが、もう一点忘れてならないのは、櫻谷がこの頃、京都で晩年を過ごしていた浅井忠をたびたび訪れたという事実である。これらを写生スタイルの変化と直結させるのは性急だが、鉛筆によるスケッチをはじめる契機として、この洋画の大家の存在をも考慮する必要があるのではないだろうか。また写生帖や絵画思想と実制作との関わりは今後検証すべき課題だが、本研究でまとめた写生帖のなかにも、彼の本画の淵源になったと思われる場面が散見される。しかしそれは多くの場合、本画発表までに数年の開きがある。これが櫻谷の言う自然の徹底した観察を経て、自己の精神を通して再現するまでに必要な時間なのかもしれない。櫻谷の作品には下絵類がほとんど伝存しないなか、その最初の行程である写生帖の分析は作品理解への貴重な手がかりとなるのではないだろうか。5.おわりに本稿で概括した櫻谷写生帖のなかには、運筆や縮模、写生など京都画壇に伝統的な絵画学習法の痕跡がうかがえたが、その一方で近代画論への共鳴や西洋絵画への関心、そして写生そのものの変化など、新たな時代の息吹をも感じることができた。本研究はまだ端緒についたばかりだが、今後、櫻谷写生帖のデータベースをさらに充実させ、櫻谷の作品研究の布石とし、その芸術世界の理解へとつなげていきたい。歳で夭折したが、その写生帖を中心とする資料が近年紹介された。教育〉」『美術フォーラム21』30号・31号(醍醐書房、2014年11月・2015年5月)鵺派の意義」『美術史』177号(美術史学会、2014年10月)2013年11月9日於泉屋博古館)(中央美術社、1926年10月)筆法、構図など共通点が多い。― 465 ―
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