鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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高村光雲が江戸仏師の流れを汲むのに対し、久一は堀内龍仙、川本洲楽に就いて牙彫師として出発するなど、同じ木彫家でありながら出自を異にしている(注15)。久一は彫刻以外の分野にも精通しており、玩具蒐集家・清水清風と在野の好古趣味サークル、ネットワークを形成し(注16)、趣向を凝らした置物や人形を制作している。なかでも雛人形には強い関心があり、同好の士と雛人形の鑑賞会や展示会をたびたび催し、《内裏雛》〔図6〕や《有職雛》〔図7〕などを制作している。久一の人形は彩色木彫であり、《倭普賢》〔図8〕のように装飾が施された台座に設置された、置物と人形の境界すら曖昧な作品もある。人形との近縁性を示すのが肖像彫刻である。《町田久成像》〔図9〕は写実的な面貌描写だが、像容は祖師像の様式を採用しているため全体にアンバランスな印象を与える。同じことは《明治天皇像》〔図10〕にも当てはまる。束帯姿で笏を持つ天皇は、伝統的な衣装を纏う君主として表現され、檜材の質感を活かしつつ、面貌が生々しく描写されている。この生々しさは、木彫に施された彩色に由来する。久一は、仏像模刻で彩色技術を培い、天心は《執金剛神像(模造)》〔図11〕を「竹内教授の模造品の彩色鮮明なるは、(中略)実物によりて往古のありさまを想像してこれを施せしなり」と評した(注17)。彩色木彫の将来を模索していた天心は、極彩色の《伎芸天》にも「奈良朝の趣致」すら発見し、明治彫刻界の「理想派」として久一を位置づけている(注18)。もっとも久一に、天心の期待する「理想派」彫刻家の自覚がどれほどあったかは不明である。彼の置物や人形、肖像彫刻は、天心の唾棄する「坐隅ノ玩弄物」に属するものであり、一連の大作とは明白に一線を画している。「坐隅ノ玩弄物」への回帰は、シカゴ万博での現地評価への落胆(注19)、天心の美校辞職(注20)、晴風ら集古会人脈との交流の活発化など複合的理由が想定され、久一の制作活動の全体像を把握するうえで注目すべき事象といえるだろう。3 流通する彫刻―頒布彫刻の制作明治期の木彫家たちの困窮は、平櫛田中の回想に詳しい(注21)。こうした木彫家たちは、しばしば自作を大量に鋳造し、広告を通じて各方面に頒布していた(注22)。久一の場合、ブロンズ鋳造に限らず、小型木彫も頒布している。《芭蕉像》〔図12〕は、そうした頒布彫刻の最も早い作例である(注23)。10cm程度の小像で、芭蕉の姿を簡潔に彫っている。芭蕉の二百年忌にちなんで二百体が彫られ、「知己友人等へ贈ラント」企図されたものである(注24)。― 37 ―

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