鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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2)先行研究と問題提起㊸ エドアルド・ペルシコとの関係から見るルーチョ・フォンターナ研 究 者:東京藝術大学 美術学部 教育研究助手  巖 谷 睦 月1)ルーチョ・フォンターナ(注1)とエドアルド・ペルシコ(注2)ルーチョ・フォンターナ(1899-1968)は、20世紀、イタリアを中心に活躍したアルゼンチン出身の芸術家である。1930年代のミラノで芸術家として本格的に活動を始めた彼は、第二次世界大戦後の1947年に宣言を発表し、空間主義の提唱者となった。この芸術家がディプロマ取得後におこなう最初の展覧会の企画と構成を担当し、その5年後に出版される初のモノグラフィーを執筆したのが、反ファシズムの立場からの建築および芸術の批評・著述(注3)で知られる、ナポリ生まれのエドアルド・ペルシコ(1900-1936)である。両者の来歴と関係の詳細については、〔表1〕を参照されたい。これまでの研究史は、大まかに二つにわけてとらえることができる。第6回ミラノ・トリエンナーレにおける〈名誉の間〉のプロジェクト〔図1〕での共同制作についての考察と、ミリオーネ画廊を媒介にした両者の関係考察である。このうち前者について、アヴァンギャルド芸術とフォンターナの研究からみた考察(注4) では、近年の最も詳細な分析はP・カンピーリオによるもので、ペルシコを中心としたイタリア合理主義との接近と共同制作が、のちのフォンターナの「空間的」表現へと繋がったことを示した(注5)。また、E・クリスポルティは、〈名誉の間〉の具体的な分析はおこなっていないものの、この作品を含めた1930年代のフォンターナの作品制作を、のちの空間主義の源泉としている(注6)。谷藤史彦はカンピーリオの研究内容をより具体的に検証し、電光が多用された空間に作品を展示した経験や、建築空間と連続する色彩を彫刻に塗布したことで空間全体の演出に関わった経験が、1940年代の空間主義に繋がる可能性を示した(注7)。いずれにしても、この計画に関わったことが、第二次世界大戦後のフォンターナの空間主義に繋がると考えられている。これに対し後者の例が、E・ポンテッジャによって編纂された二つの展覧会カタログである(注8)。ミリオーネ画廊の研究は、第二次世界大戦時のミラノ爆撃による史料散逸のために困難を極めていた。しかし、1988年のカタログにおいてポンテッジャがこの画廊において開催された展覧会の時系列リストを発表し、これをふまえた1998年のカタログで画廊におけるペルシコの立ち位置を明らかにしている。― 470 ―

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