鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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えた彼女の衣は翼の形に背中へとたなびいている(注13)。こうした彫像が展示された博覧会においてペルシコは、撤去されたフォンターナの《虚空の勝利》を最も素晴らしい作品だと賞賛した。この像の衣の表現を、「風に濡れた=bagnate dal vento」かのようだ、とペルシコは述べる(注14)。これは無論、古代の彫像の「濡れた襞=panneggio bagnato」の表現を念頭においた言葉だろう。ペルシコの目は、この作品のなかにある古代に通ずる表現を見落とさなかった。とはいえ、この像には古代以来「勝利」の擬人像が持つ「翼」はない。それゆえ批評家は、「翼のない《勝利》」という断りをわざわざ入れたのだろう。これに対し、マスケリーニのイカロスには翼があり、マルティーニの勝利には翼を思わせる衣紋の流れと、その身に従えた「航空機=鳥」たちの翼がある。この博覧会が開催されてから9年後、G・バシュラールは『空と夢』において、翼は夢の飛行に対する「古代の合理化」を表しており、イカロスのイメージを形づくったのはこの合理化であるとした(注15)。実際、翼とは鳥の飛行手段であり、飛行のイメージと合理的に結びつけられる。バシュラールはさらに、C・ノディエの語る気球と、G・ダンヌンツィオの詩における航空機をあげて、時代は違えども、これらはいずれも「飛行」のイメージの合理化を示すものだと看破している。バシュラールの慧眼に従えば、マスケリーニのそれはまさに古代における「飛行」のイメージそのものであり、マルティーニのそれは衣の翼によって古代の「飛行」イメージを、従えた航空機によって20世紀の「飛行」のイメージを表していると言える。いずれにせよそこには、「飛行」の合理的なイメージと重なる、実在する「空を飛ぶもの」が投影されているのだ。この点において、フォンターナの《虚空の勝利》は異質である。この女神の背に翼はなく、しかし彼女は自らが虚空にあることをその髪と衣紋の流れによって伝えている。ここに見られるのは「飛行」の隠喩であり、マスケリーニやマルティーニによる「飛行」の直喩とは明らかに性質が違う。イタリア航空博覧会がファシズム政権下のイタリア空軍を賞賛するものである以上、より大衆にわかりやすい「飛行」の表現と、より明確に古代の伝統を感じさせる「勝利」の表現が求められたであろうことは想像に難くない。この状況下に示された「飛行」の「隠喩」という性質は、のちの空間主義について考えるうえで重要である。4)フォンターナの色彩表現とペルシコの明暗表現フォンターナは《虚空の勝利》の身体を金色に塗り、その衣を青色に塗った。この― 472 ―

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