鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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4 竹内久一と次世代の彫刻家たちその後は売買を目的に、菅公千年祭での《菅公像》〔図13〕や、東照宮三百年祭での《徳川家康像》〔図14〕など、各年忌にあわせた個数の頒布が実施されている。他に《征露大捷記念日蓮像》(明治38年、二千体程度)、《烏帽子兜置物》(明治44年、三百個)などが頒布された。なお、《菅公像》と《烏帽子兜置物》は、中型の彩色木彫〔図15、16〕も作られている。上記の頒布彫刻のうち、《芭蕉像》と《菅公像》は木彫、他はブロンズである。大量生産の必要から、頒布彫刻はいずれも簡潔なフォルムであり、木彫では、素地仕上げか細部に僅かに彩色が施されている。価格は《烏帽子兜置物》が一個6円50銭で販売されている(『東京朝日新聞』明治44年4月26日)。頒布彫刻は、購買層の関心を引くために、いずれも歴史上の著名人にちなんでおり、流通を見越した宣伝と広告がなされている。久一の頒布彫刻は、展覧会とは別種の方法で自作を披露する手段であり、手元に置いて楽しめる段階まで、彫刻を社会に浸透させる役割を果たしたといえる。最後に、竹内久一が次世代の彫刻家たちとどのように関わったのか触れておきたい。日本近代彫刻史における久一の評価は、同時代の高村光雲には及ばない。《老猿》(東京国立博物館、明治26年)などの代表作とともに、明治40年、光雲門下が日本彫刻会を結成し、以後の木彫界を牽引する有力作家になったことも、光雲に与えられる高評価の一因である(注25)。また、長沼守敬の印象では、美校内での光雲は西洋の彫塑にも早くから理解を示した開明派であり、久一の方は保守的な立場に映ったようである(注26)。しかしながら、久一の教えを受けた彫刻家たちの顔ぶれ〔図17〕を見れば、そうした保守性とは結びつかない、輩出した人材の多様さに驚かされる。明治26年頃、久一は実成舎という彫刻研究会を兼ねた寄宿舎を設立した(注27)。実成舎からは、白井雨山、沼田一雅、天岡均一、菅原大三郎、香取秀真、本保義太郎、長愛之など優れた作家たちが巣立ち、美校の教育課程では岡本熊吉、大村西崖などが久一に学ぶなど(注28)、光雲とその一門に比肩する規模の人脈が築かれていたことがわかる。実成舎の出身者を見て明らかなように、久一の本領である木彫を継承した作家よりも、彫塑(白井、本保)・陶彫(沼田)・金工(香取)・美術評論(大村)などさまざまな分野に弟子たちが進んでいる。例えば、白井の卒業制作《老子像》〔図18〕は伝― 38 ―

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