明7年(1787)の作例と隔たりがあるように見られるが、内貴本の写真からはかろうじて「安永」の文字が読みとれ、応挙が安永・天明期の10年以上にわたって同様の構図を採用していたことがわかる。そして、《江州日野村落図屏風》の印章の磨損状態は、他の安永5年作と概ね一致している(注4)〔図6〕。実際に調査で確認した他の作品3点の中で、《月夜浮舟図・江頭月夜図》は印章のみであるが、旧帰雲院障壁画で別の部屋にあった《雪景山水図》には落款があるのでそれを視野に入れると、旧帰雲院障壁画の《雪景山水図》、《四季山水図屏風》、《月夜水村図屏風》の落款は、何れもお互いに共通している点が多い〔図7〕。旧帰雲院障壁画の印章についてとくに注目されるのは、生涯で最も多用した「應擧之印」/「仲選」ではなく、「應擧」が使用されたことである。表に挙げた「琵琶湖型山水図」の作品間の違いは、ほぼ作品の形状に関するもので、近づいて観察すると、モチーフのアレンジには多少のバリエーションが確認できる。その一つは、右方の小屋の窓に見出される高士の有無であろう。この人物は、《江州日野村落図屏風》と《月夜浮舟図・江頭月夜図》に含まれているが、《四季山水図屏風》と《月夜水村図屏風》では省略される。入札目録のみに確認できる屏風3点の中では、少なくとも内貴本と某本には、高士がいるが、中村本は掲載写真の不明瞭さにより見分けられない。画面の右の村落の軒数にも差がある。サンフランシスコ・アジア美術館の《月夜水村図屏風》には、通常の4軒から1軒が省略され、さらにその中心的で一番大きい建物の屋根の方向性は、他の作例と逆になって右向きである。右方の木立から飛び出す枯れ木のディテールの有無も異なっている。既に高士の姿を省略した《四季山水図屏風》と《月夜水村図屏風》には、この比較的目立つ形が見当たらない。《江州日野村落図屏風》に特徴的な細部は、川と村落の間にある階段状の坂である。このディテールは、他の何れの作例にもない。その他の差異は、主に屏風の左隻と襖の場合は一番左の2面に見出せる(注5)。すなわち、湖に浮かんでいる小舟と画面中央の木立の間には、普通は少し距離があるけれども、両モチーフは画面の右半分に収められている。このパターンから離れているのは、中村本と某本のみである。前者は、小舟と木立の間の距離が狭くなり、後者は、前掲のモチーフのすべてが一扇左に移動される。グループ内の作品を比較した上でさらに注目されるのは、《四季山水図屏風》と《月夜水村図屏風》の構図形式は他と共通しているにもかかわらず、多数のディテールの省略を示している点である。「琵琶湖型山水図」の典型から少し離れた、グループ内では最も派生的な作例といえるだろう。その反対に《江州日野村落図屏風》、《月夜浮― 483 ―
元のページ ../index.html#494