旧帰雲院障壁画と同じ下絵に基づいて描いたディテールであると判断する(注8)。以上のように、応挙の「琵琶湖型山水図」の山水図とそれに関連する作品を比較した上で、次に「琵琶湖型山水図」の画題の意味を考察したい。4.画題の意味応挙は、周知の通りに写生派の祖として評価されている。そのため《江州日野村落図屏風》のように琵琶湖を主題にした作品群は、自然の忠実な再現として理解される場合が多い。応挙の生涯を作品の背景として併せて考察すると、彼のいわゆる円満院時代が直ぐに思い浮かぶだろう。応挙は、明和後期から安永2年(1773)までの円満院時代の数年間に琵琶湖を目にする機会があり、実際に琵琶湖を写した写生図巻も京都国立博物館に現存している。ゆえに、山川武氏は「円山応挙筆四季山水図」解説に「春・夏の一雙、秋・冬の一雙、合わせて六曲屏風二雙(四面)に描きわけられ四季の山水は、京都近郊のごく日常的な自然を四季の風情にとり合わせた純大和山水図である」と指摘したわけである(注9)。『没後200年記念:円山応挙展』の《江州日野村落図屏風》の解説文の筆者も「応挙ははたして実際に近江日野の地を訪れているのだろうか」と思索しながら、応挙が実景をそのままに写した可能性を暗示している(注10)。しかし、琵琶湖は単なる湖ではなく、日本の古典文化と縁の深い名所である。古くは琵琶湖の満月を見ながら源氏物語を書き始めた紫式部のイメージがある他、江戸時代になると琵琶湖は、文人や知識層に非常に好まれた地域であった。例えば、松尾芭蕉も一時琵琶湖の南方で「幻住庵」と称された小庵に在住したことがある。そして、日本の絵画史において一つの重要な画題である「近江八景」は、中国の湖南省の「瀟湘八景」を日本の風土に適用させたテーマである。「瀟湘八景」、「近江八景」を主題にした絵画は、室町時代以降に著しく描かれ、中でも著名な作例は、大徳寺大仙院蔵の相阿弥筆《瀟湘八景図》襖絵である。応挙の琵琶湖の作品群は、このような「瀟湘八景 → 近江八景 → 近江」という系譜の終端にある。「琵琶湖型山水図」の左方に現れる半月と作品の秋季としての季節感は、近江八景の一場面である「石山秋月」と無関係ではなかろう。また、《江州日野村落図屏風》に「近江国」という意味で使われている「江州」にも注目する必要がある。大正元年に出版された『古事類苑』の「近江国」の条には、「江州」は、「俗間」の言葉で誤っている表現であり、「改むべきことなり」と書かれている(注11)。『古事類苑』の筆者が気になっている点は、「州」という部分であるが、― 485 ―
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