鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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それこそは単に間違っているのではなく、逆に近江国のイメージを中国らしくする意図で使用されていたのであろう。旧帰雲院障壁画の《月夜浮舟図・江頭月夜図》と《江岸楊柳図》という題名に現れる「江頭」と「江岸」という表現も、それと同様の例である。文字通りに江頭を「川沿い」や「川端」、または江岸を「川辺」の意味で解釈するのは間違いではないが、「江」は、中国の長江の略称としても知られていた。応挙の絵画の題名は明治時代以降につけられたものも多い。《江州日野村落図屏風》の題名は、箱書きによるが、それにしても、明治から突然に応挙の山水図の解釈が完全に変わったとも考えにくいであろう(注12)。つまり、これらの題名から、明治時代と江戸時代の人は、応挙の山水図をどのように見たか、いかに理解していたかという問題のヒントになる。近江はある意味では「日本の中の中国」の代役であるので、「江頭」や「江岸」をテーマにした絵を見ると、鑑賞者が長江の河景色を想像できるようになる。より細かく言えば、江戸時代の鑑賞者の想像に、琵琶湖は中国という文明国のイメージと重ね合わされて、つまりある意味では一体化される。中国及び中国文化に対しての憧れは、現代よりも当時の方が応挙の山水図に対して強く感じられたのである(注13)。それは多分に応挙の直接の問題というより、絵画の鑑賞者や注文主の問題になる。応挙の絵画と当時の文芸には関係があり(注14)、応挙の周りにいた人脈を確認すると、中国趣味・中国文化への憧れの強い人物が多かった。儒者の皆川淇園(1734-1807)を始め、漢詩で評判を高めた学僧・六如(1734-1801)から、応挙が交流を持っていた文人画家・俳諧の巨人の与謝蕪村(1716-1784)まで及ぶが、そこに止まらない。「近江国」が「江州」と呼ばれ、呼び方によってイメージが変貌するのと同じように、江戸時代の知識人や文人は自分の苗字で中国文化への親和性を表現していた。例えば、応挙の作品に折に触れて賛を入れた高芙蓉(1722-1784)は、もともと「大嶋」という苗字であったが、「高」という一字苗字に名乗ったことは、その中国趣味の一つの習慣のためであった(注15)。同じく応挙作品の賛者であった鳴沢素堂が落款で「鳴素堂」と書いたのは、同様な意味であろう(注16)。さらに応挙と親しかった妙法院真仁法親王(1768-1805)がときどきに印章を依頼した菅原南涯(?-?)は、菅南涯という名前も使われていた(注17)。応挙弟子の呉月渓(呉春)、秀雪亭の苗字も中国風である。こうした文化的な背景を視野に入れると、応挙の山水図の魅力は、多分にそのアンビバレンスさ、すなわち両義性に根拠があった。《江州日野村落図屏風》は、画題や構図などコンセプチュアルな段階では狩野派や室町時代の水墨画とほとんど変わらな― 486 ―

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