注⑴ 兵庫県立歴史博物館編『没後200年記念:円山応挙展』、「円山応挙展」全国実行委員会、1994年、⑵ 山川武「円山応挙筆四季山水図」、『国華』997号、1977年、pp. 21-22。[付記]い既成の中国の高士や仙人が登場するフィクションの世界を促しながら、一方ではより「日常的」な日本の風景に近い印象の描写を画面に実現した。5.結論結論として、応挙の山水図に関する二つの事実を指摘できる。まず、応挙のモチーフのパターン化と別の作品での下絵の再利用は、かなり整然たるもので、特に山水図の場合は彼の絵画活動の基礎的な側面であった。応挙の活動が個人制作の絵師から共同制作を行う工房の筆頭になるまでの数年間に亘る期間と、本稿で論じた《江州日野村落図屏風》や《月夜浮舟図・江頭月夜図》に代表される「琵琶湖型山水図」の類似性の強い作品群の制作期間は、概ね一致している。従って応挙が工房制作に力を注いだから作品数が増加したというよりは、応挙は粉本と下絵に基づく制作過程を積極的に採用しはじめたため、後の工房が可能になったものと思われる。粉本と下絵の利用により応挙の本画への準備が簡略化され、その結果複数の注文を並行してこなす大規模な絵画制作が実現できたのである。一方、応挙の山水図を京都付近の自然を忠実に絵画化した風景画のようなものと見做す傾向は、先行研究において相当あるが、上述した通り、応挙の「琵琶湖型山水図」は、「瀟湘八景」、「近江八景」という伝統的な主題と繋がっているため、単なる日本の風景画ではない。仙人や高士が存在した大文明国として想像された中国のイメージは、応挙の山水図に織り込まれ、日本/中国のふたつのイメージから成る画面内の両義性が、作品の概念的な側面において重要な要素となっている。応挙の周りにいた人物の中には、中国に強く親和性を感じた文人や知識人が多くいたことは確かである。彼らの目で見た応挙の山水図は、一見、親しい日本の景色であっても、実は彼らが憧れたフィクションの世界の入り口として鑑賞されたのである。今回の研究に際して、東京国立博物館、三の丸尚蔵館、大和文華館、サンフランシスコ・アジア美術館にご高配を賜りました。感謝と御礼を申し上げます。p. 54。― 487 ―
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