鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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統的な木彫技法に依拠しているが、後に《たよりなき身》(東京国立近代美術館、明治45年)のように情感豊かな大理石彫刻を残している。沼田の《猿》〔図19〕や天岡の《国土生成神青銅像》〔図20〕など、久一の置物的な要素や神話・歴史を主題とした作品の系譜に位置づけられる作品もある。明治30年に実成舎は解散されたが、同年、白井、大村が主導して青年彫塑会が結成され、天岡などが加わっている(注29)。近代日本の本格的な彫刻団体の結成に久一門下が多数関わっていることは特筆すべき事実であろう。美校以外にも、久一の影響を受けた作家は存在する。特に中谷翫古は、久一の彩色木彫の技法を最もよく継承している。翫古は人形師の父に木彫を学び、明治26年の上京後は久一に就いて学んだ(注30)。同年に実成舎が設立されているため、翫古も入塾した可能性がある。また翫古は、《伎芸天》の彩色助手を務めており(注31)、確証はないが、翫古は「竹内久一工房」の一員として組織化された可能性もある。翫古は、後に元禄趣味〔図21〕の人形作家として活躍している。そして光雲門下でありながら、平櫛田中は近代の彫刻家のなかで「一に竹内久一。二がなくて、三が森川杜園」と評価している(注32)。無彩色の木彫家であった平櫛は、彩色木彫に転向する過程で、同じく彩色木彫に優れた作品を多く残した久一を「再発見」したのである。平櫛の肖像彫刻にみられる生々しさや人形的要素は、久一の作品に通じる点が多い。そして、こんにちの久一研究の基盤となっているのが、井原市立田中美術館、東京芸術大学、小平市平櫛田中彫刻美術館に伝えられた平櫛旧蔵の久一コレクションと平櫛による再評価であり、その意義は改めて言葉を重ねるまでもないだろう。おわりに以上みてきたように、竹内久一は従来注目されてきた大作彫刻以外にも、置物や人形、肖像彫刻など、天心の彫刻振興策のみでは説明しきれない多面的な制作活動を展開していた。紙数の関係で十分に論じられなかったが、今後、彩色技法についても研究を進めることで、よりその独自性を明らかにすることができるだろう。それを踏まえ、あらためて久一の制作活動の意義を捉えなおし、次世代の彫刻家たちとの関係を再検証することにしたい。それによって、日本近代彫刻史における久一とその周辺作家たちの位置をより明瞭にすることができるであろう。― 39 ―

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