鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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の新興美術を知る。同年1月にパリからベルリンに移ってきた東郷青児の義弟・永野芳光(1902-1968)や和達と共に、デア・シュトゥルムのヘアヴァルト・ヴァルデンやイタリア未来派の詩人ルッジェロ・ヴァザーリと知り合い、3月にヴァザーリ主催の「大未来派展」(I.E.ノイマン画廊)、5月には「第1回デュッセルドルフ国際美術展」(ティーツ百貨店、5月28日-7月3日)に独学の油彩画を出品。デュッセルドルフで行われた「国際革新芸術家連盟会議」(市庁舎本会議場、5月29-31日)には和達と三人で出席し、デ・ステイルの作家らと交流している。しかし、イタリア未来派への参加を偶然の産物と自覚し、美術界に見られる市場主義や党派性に幻滅したことから、各地の美術館で古典絵画を見る旅を経てベルリンに戻ると、肖像画で古典技法を試みる一方で、廃品や異素材を用いたコラージュ形式の平面構成を始めた。造形芸術において古典と前衛の二方に引き裂かれ、その矛盾を感じぬままに双方へ疾走したという村山は、9月にベルリンのポツダマー通り12番にある書店兼画廊「K & E.トワルディ書肆美術 Buch und Kunstheim K & E. Twardy」(以下トワルディ書肆美術)で個展を開催(注3)。ニッディー・インペコーフェンのノイエ・タンツ(新興舞踏)に傾倒したのち、得るべきものは見聞し尽くしたという若い納得をもって年末にはドイツを発ち、翌年2月の帰国後まもなく評論と個展を皮切りに多彩な活動を展開する。一年に満たないドイツ滞在だが、日本にもたらしたものは大きかった。トワルディ書肆美術については、村山の回想に加え、1922年から23年にかけて高田商会の社員としてベルリンに留学していた美術批評家・仲田定之助の回想と日記がこれまで紹介されてきた(注4)。所在地のポツダマー通り12番(Potsdamerstr. 12)はポツダム広場に近いベルリンの中心部に位置し、ベルリン市公文書館の地図情報サイト「HistoMapBerlin」(注5)に公開された1910年と1932-36年版の地図から1922年当時の位置が確認できる〔図1〕。また、村山や仲田の回想にあるように、トワルディの真向いにあったというデア・シュトゥルムの画廊(ポツダマー通り134a番;編集部は138番)が正対していたことも見て取れる。ポツダマー通りの建物番号が1937年に付け替えられて12番の位置が26番となったのち、第二次大戦後にベルリンの壁と国立図書館の建設によって画廊があった一帯はポツダマー通りから分断された。現存する道路はアルテ(旧)・ポツダマー通りと改称し、トワルディ書肆美術の位置にある建物の住所はマレーネ・ディートリヒ広場2番となっている〔図2〕。1900年頃ないし以前の撮影と推定されるポツダマー通り12番の建物写真がベルリン州文化財局に所蔵されており、1922年までに建て替えられている可能性も考慮しつつ、1900年から22年にかけこの地図と住所録で同― 493 ―

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