鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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3.トワルディという場所1922年版にはポツダマー通り12番の店が併記されるがケーテの名はない。25、26年版の氏名一覧には登録がなく、27、28年版に再び書肆業のエミーが、29年版からはクニプローデ通り10番、書肆業のエミーとポツダマー通り12番の美術工芸商Kunstgewerbeのエマが別々に記載されている。氏名一覧でのエマ(美術工芸商)は1932年と33年版で住所をケーニギン・アウグスタ通り43番(Königin Augusta Straße 43)としているがこれは誤記であり(注7)、街路一覧に掲載された23番が正しい。また、ベルリン市文書館の書類に記載されたティルピッツウーファは1933年12月7日にケーニギン・アウグスタ通りから改称されたラントヴェーア運河沿いの街路であり、ティルピッツウーファ46番はケーニギン・アウグスタ通り23番に等しい(現在のライヒピーチュウーファ48番 Reichpietschufer48)。1934年版以降は再びクニプローデ通り10番のエミーだけが掲載されるが、1937年版以降のエミーはVerkäufer(販売員、ただし男性形、誤記)として掲載されていることが1943年版まで確認された。街路一覧のポツダマー通り12番には「K & E. トワルディ書肆美術」が1921年版から1931年版まで掲載され、1932年、1933年版のケーニギン・アウグスタ通りを最後にトワルディ書肆美術の名前は確認できなかった。ベルリン市公文書館資料の無資産証明書(1937年6月18日付)はエマの出生について1883年4月25日、東プロイセンのツァルネン(Czarnen Ostpr.;現在のポーランド領ツァルネ Czarneか)と伝えているが、ケーテについては不詳に留まる。ケーテの離職を伝える1926年11月11日付のベルリン地区裁判所宛の文書には、ケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)の所管庁によって「ケーニヒスベルクのケーテ・トワルディ嬢」の署名証明が記載されており、この頃にケーテがベルリンを離れ、ケーニヒスベルクに居たとも推測されるが、むしろ1917年にツォポットからベルリンへ転居したエミー・トワルディが、ケーテと共同名義で店を立ち上げるにあたりエマと名を改め、実質は当初より一人で画廊を運営していたのではないだろうか。村山の回想、またトワルディ書肆美術で作品や書籍を購っていた仲田定之助の回想でも、女主人は単身で描写されている。「伯林で目抜きのポツダマー街に、丁度「ストゥルム」(猶太人ワルデンが指揮している表現派の団体)本部の真ん前にトゥワルディー嬢という眼鏡を掛けた女の人のやっているごく藝術的な小さな本屋がある。そこは云わば反「ストゥルム」の藝術家― 495 ―

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