達のひいきにしている家でアーキペンコやカンディンスキーなども個人展覧会をやったことのある家である。九月にはいって私は此処で個人展覧会をやった。そしていろんな藝術家達と知り合いになった。」(村山知義『カンディンスキー』アルス、1925年)「新しい小工芸品やシヤガール、カンディンスキー[、]クレー、レムブルツク等の作品を陳べてゐる店がある。主人はトワーディと云ふ老嬢だつた。」(仲田定之助「伯林の画商」1930年、注3参照)仲田はまた、トワルディは「アンチ・ストゥルムの芸術家達が贔屓にしていた六坪ほどの小店舗であったが、その飾窓にはブラック、シャガール、シニャック等の小品を陳べたり、琺瑯、真鍮の工芸品、バイエルン農民の硝子絵などを飾っていた。」と述べている(注8)。村山や仲田の回想は同時代の証言として貴重なものだが、今日の視点から再考の必要があると思われる。「私がダダイズム式の絵を描くやうになつてからの事だが、伯林のポツダマー街の或る店で個人展覧会をしようとした、さうすると店の持ち主はその絵の中で貼り附けたり縫ひ附けたりしてある分を全部傍にどけて「如何でせう、そつちの美しい絵だけを陳列して戴くわけに参りませんでせうか。」と云つた。私が面喰つて「何故か。」と聞くと持ち主は「こちらの絵を展覧致しますと店の硝子を皆たたき壊されてしまふだらうと思ひますので」と云つた。気が附くとその店の向ひは表現派の本部とも云ふべきDer Sturmだつた。」(村山知義「過ぎゆく表現派」『中央美術』9巻4号、1923年4月)との記述を、村山はドイツ美術界における諸派閥の対立を批判的に例示する文脈で書いている。しかし、1920年頃からロシア作家へ働きかけていたデア・シュトゥルムは1922年2月にモホイ=ナジのエナメル絵画をペーリとの二人展で展示しており、その活動は構成主義への転換期にあった。当時トワルディで働いていた女性の回想がこれを裏付ける。ポツダマー通り12番のトワルディで、私は幸運にも彼女の(ihr)右腕として働くことができた。美術品の展示も行う書店であったトワルディでは、毎日のように著名な人々を目にした。アーキペンコ、カンディンスキー、モホイ=ナジ…彼らは真向いにあったヘアヴァルト・ヴァルデンの「シュトゥルム」からやってきた。私はカンディンスキーとロシア語で会話し、モスクワ時代の子供達の素描のポートフォリオを見せた。モスクワでカンディンスキーを知っていたシーマンが要求したからだ。カンディンスキーは私の作品も見てくれた。彼が褒めてくれた小さなコラージュを、今でも私は気に入って手元に置いている。当時とても有名― 496 ―
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