だったモホイ=ナジは、私にはかなり自惚れているように見えたけれども、私のようなロシア娘がモダンアートをかくも理解していることに驚いたとお世辞を述べたものだ。私は一度、トワルディさんと一緒に、ブルーノ・タウト夫妻を彼らの小さな別荘に訪ねたことがある。(注9)1921年にモスクワからベルリンに移りトワルディ書肆美術で働いていたアーティストのエレナ・リースナー=ブロムベルクは、前年までモスクワの美術学校(のちのヴフテマス)で、エドゥアルト・シーマン(Eduard Schiemann)から引き継いで鉄道労働者の児童に描画の授業を行っていた。批評家・ジャーナリストのハンス・ジームセンが1921年1月20日の『ヴェルトビューネ』3号に寄稿した「子供の素描」は、上述のシーマンとカンディンスキーの関係から行われたであろう展示に際して店内の様子を伝えている。「とある“書肆・美術店”、その唯一の空間はごく小さな煙草店ほども広くないのだが(トワルディ、ポツダマー通り1ママ3番[sic])、机や棚の上方の空間、さらに壁の空間にも、三、四十の素描と水彩の小品が掛かっている。その大半は子供たち、私の知る限り、労働者の子供によるものだが、成人労働者の作品もいくつか含まれていた。子供たちの素描には、かなり素晴しい、信じられないほど美しいものがあった。労働者の素描に見るべき作品はまったくなかった。これがこの展覧会の悲哀というべき点である。それは、生が人間から作り上げたもの─労働者─を提示していた。」(注10)ベルリン市公文書館のトワルディ関係文書には店の広さについて「4×4」との記載があり、これがメートル表記とすれば16㎡の、確かに小さな空間であっただろう。また、ブルーノ・タウト発行の『曙光』3号(1923年春号)は、パウル・ゲッシュの作品をトワルディ書肆美術で数多く見ることができることと、現在はカール・クライル、ヘルマン・フィンスタリン、ハンス・シャロウンの作品が展示されている旨を伝えている(注11)。こうした児童画や表現主義建築、またアウトサイダーアートとも見做されるゲッシュ作品の展示は、1922年に出版されたハンス・プリンツホルンの『精神病者の芸術性』に前後するものであり、トワルディ書肆美術の極めて「モダン」な指向を伺わせる。また、今回の調査でクルト・シュヴィッタースが1920年代の住所録「Merzgebiet1a」につけていたベルリンの連絡先一覧にトワルディが記載されていることを確認した(注12)。アーキペンコやカンディンスキーを仲田や石本喜久治に紹介したように、シュヴィッタースを村山に紹介したのがトワルディであった可能性もあるのではない― 497 ―
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